岡田信一郎アーカイブ

建築家岡田信一郎について

新日本の建築

(建築雑誌337号、大正4年、1915)
新日本の建築
  正員 工学士 岡田信一郎     

此の稿は大阪朝日新聞の需により其の新年号の為めに執筆したものである。

今度の大戦乱(第一次世界大戦)は何時終止するか此暗黒を破つて平和の曙光がいつ閃くかは遂に予測し難い、又其勝利が聯合軍側か 独逸側か何れに帰するかも断じ難い。対峙久しきに亘れば聯合軍の勝利と思はるゝが或は両軍共に著明な勝敗なくして合打に了るかも知れない。
(しか)し勝敗の数は何れにしても勝者敗者共に莫大な打撃を受ける事であらう。次の時代を引受く可き有為な青年は壊れ傷いて国家の原動力は尠からず損せらるゝ、此故に或は此動乱の為に世界の文明が頓挫するかのやうに云ふ人もあるが、然し私は其反対に反つて此戦乱を一転機として世界の文明が躍進すると考へる、
成程一時は戦争の疲弊と其善後策の為に勝者も敗者も平和の文明に力を尽す余地が無いかも知れない。併し其れは春を待つ、冬枯の樹木の如きで、一陽来復すれば非常な勢ひで進展すると思はるゝ、春草の萌え立つのを待つ為に秋の草を焼くやうなもので旧株から新芽が前よりも勢ひよく芽出すやうに戦乱後の文明の進展は目覚ましいものであらう。
而して其一大特徴は各国民の自覚と云ふ事であらう。此の惨ましい戦乱の与へた教訓は実力充実の必要や皮相の平和の弊とで各国民皆其自身の立場を沁々と自覚した結果文明の競争は愈(いよいよ)激甚になるであらう。而して此の自覚が種々の形で今後の文明を飾る事になるのであらう。
我国民も今にして確固たる自覚を以て新日本を確立しなかつたならば此大勢に圧倒されて惨しい目に会はねばなるまい  私は日本が戦渦の中に立ち乍らも青島を一蹴したゞけで欧洲の渦乱を対岸の火災視する平和を享けるのを幸福だとは思ふものゝ同時に単り我国が労苦少く刺激も弱いだけに自覚も皮相的でありはしないかと私に怖れるのである。
今は戦乱から生ずる経済や交通の変態から自国の立場を自覚したやうだが大晦日に借金取から責められて、来年からは一働きと自覚した奴が元日の屠蘇酒で天下泰平になるやうな事無くんば幸ひである。

日本も維新開国の際に永い鎖国の眠から覚めたが併し欧洲文明の燦たる光彩に眩惑した形がある。未だ寝ぼけ眼で是非善悪の差別もなく欧洲文明の皮相を受入れた。
其後日清日露と戦役の難境に処して次第に自覚を増した、而して此度の戦乱では四周の混沌につれて自国の立場が明瞭に分つて来た。文芸美術で国民性の発露と云ふのも此の自覚の形を成したもので、実業の方で国産奨励などゝ云ふのも此の自覚の一面に他ならない。
私は職に建築に従事して居るので今新日本の建築が如何にあるべきかに就て論じ而して特に建築界に於ける国民的自覚に就て述べて見たい。

嘗て私は建築学会で「新建築の意義」に就て講演して建築界の現状が過去の如何なる時代にも見なかつた極めて著るしい回転の気運に際会して居る事を述べ其の原因の重要のものとして
一、科学の発達、二、建築の目的の変化、三、材料構造の変化、四、思潮の変化、五、交通の発達、六、経済状態、七、生活状態の変化、八、美術工芸の発達等を数へた。
而して此の如く周囲の状態が変つたが為め建築も当然此の変つた新状態に適応せねばならぬ事を論じた。之は日本の建築に関しても全く同様で今日の我邦の建築も此の新らしい四囲の状態に一致せねばならぬ。
然るに今日我国建築界一般のやりかたは無批判に欧米の建築を模倣してたゞ及ばざるを恐れて居るのみである。而して意匠と云うのも欧米の建築雑誌の図面から模倣の種を見付けて之を取捨塩梅して継ぎ矧ぎするので欧米の行き詰まつた建築の皮相、形骸に追従するにすぎない。
其故に時代の新思潮に共鳴するものでもなく、新生活の活需要に適応するものでなく又国民の自覚を体現するものでもない。今にして建築家の確固たる自覚を得なければ新日本の建築に就て甚だ寒心すべきものがある。

何よりも先づ私は建築家に建築の根本的理解を求めたい。一口に建築は科学と美術の融合と云はれ美術的工業と称されたるが其の本拠は何であるか、曰く実需要を充たす為め構造して而して美術的効果を及ぼすものである。
茲に私が実需要と云ふのは単に雨露を凌ぎ寒暑を防ぐだけの狭い意味ではない、社会生活の凡ての要求を云ふのである、而して肉体と精神とより成る人間の実需要と云へば其の精神的方向の実需要をも含む事は申すまでもない。
住で愉快見て美術的であるのも要するに広義の必要の一端である。建築は小にしては個人の、大にしては社会の活動の容れ物である故に此の実需要に極めて便宜に適はねばならぬ 而して之が為めに其の建物の性質に応じて最新の種々の設備が適用せらるべきは勿論である。
其れ故に建築家は其の建てらるべき目的、使用せらる可き用途に対しては十分な洞察と精細な研究とを要する。斯道では先進である欧米の建築は勿論之を参考すべきではあるが妄に盲目的に之に則る必要はない。日本の今日の状況に於て最適当なる実需要の解決を下せばよい、我等の社会、吾等の生活が根本である。
構造と其材料とは今日建築界に転機を画する一大動機で、鉄骨構造、鉄筋コンクリート等の新構造新材料が急激に勃興しつつある。其他材料が石よりテラコタ、木より鉄と一般に曰へば天然材料より人工的材料に代りつゝある。此等の新材料、新構造により合理的に且経済的に構造すべきである。而して其形式と表現とは材料、構造が異るにつれ過去のものとは全く異らねばならない、之れ新建築の意義ある所以の一である。

私は又今日の国情に省みて経済的と云ふ点を特に声高く論じたいと思ふ。近頃の経済状態は建築に対して余り寛大ではない。
東洋の一大強国を以て自他共に認めて居る我国も其の国政の根元たる議院の建築を建てるのに度々企つゝ幾度か中絶して居る。首府東京市の市庁は府庁と同居で又自治体の根本である市民集合の為の公会堂もない。大阪市でも市庁の設計意匠は嘗て競技で募集されたがいつ実行さるゝか分らない。其他実際建てられる物にしても十分な工費を備ふる事は稀である、
然るに一方建築家は無暗に立派なもの(世俗的の意味で)を造りたがる、石材を使用するとか装飾彫刻を付けるとか色々苦しい工面をして何うにかして外観を立派にしやうとする。其の結果他方に欠陥を生じ堅実でないまやかしものが出来上る、之は目下の経済状態を弁別せざるやり方ではあるまいか、
建築するには無論其れ丈の工費がかゝる、併し無暗煮工費を増したとて優良なものが出来る訳では無い。普通云ふ装飾などの多い建築の立派、美観と云ふのは芸術的に高い価値を有する事とは別のことである。
石材を多額に使用するだけの金がなくとも、装飾が少くとも建築家の高邁な思想と熱烈な情緒とから優良な作品を得る事は必ずしも困難ではない。而して建築家は国家の経済状態に鑑み工費を低下して永久的耐火的家屋の普及を慮らねばならぬ。

私は又今日建築家特に経験ある先輩諸氏が建築工事の末梢にのみ力瘤を入れるのを不満足に思ふ、煉瓦なども馬鹿気て精選なものを用ひ石材の加工なども極度に丁寧にして之によつて工費を増大する事は怪訝に堪えない、其実堅牢であらば表面粗雑でも色合が多少雑駁でも煉瓦の用途に差支はない、否寧ろ其方が時とすると建築に厚味、温味を増し雅致あるものとする煉瓦を積む目地の如きもモルタルさへ十分附着すれば「目地の通り」などは重要な事ではない。石材の加工等も同様である。
私は日本の建築が其施工の末梢に於て欧米の建築に此しても余り丁寧すぎ徒らに工費を多大にするのを建築発達の一支障と考へる、建築家の注意と努力とは最少し根本問題に向けられねばならぬ。 

斯の如く実需要に準拠し適当な材料により合理的に構造せられた物が優良な美術的効果を及ぼさねばならぬ。之れ一に建築家の手腕に竢(ま)たねばならない。
実用の束縛は屡(しばしば)建築を美術の圏外から除外しやうとするやうに考へられて居る。併し私は此処が建築の最も面白い所であると思ふ。
建築の美の主要なる者は此実需要を如何に美術的に解決するかの点から生ずる、或建築家は所謂建築の外観美を納めんが為に実需要を邪魔にして、或は乱暴に之を犠牲にする事さへある。之は自ら建築美の大事な特徴を擲つ如きもので実用即美とまで曰へなくとも少くとも建築では実用と美とは背馳するものではない。
建築家は実用を美術的に解決して其確固たる思想を具体化すればよい。而して之が為には天才者ならざる限り建築家の修養を要する。
私は今の建築家は余りに修養を怠って居りはしまいかと思ふ。文芸、絵画、彫刻等他の美術に関与する者の多くは多少自分に其天分のあるのを自覚して夫々の方面に向ふ。併し自分に美術的傾向が著るしいと云ふので建築に志した人は近来の青年建築家は知らず其他は極めて僅かで、多くは唯工学に志し偶然の結果建築に従事し時運に乗じて其地位を占めたに過ぎない。其故に自己の先天的素質から流露して優秀な作物を得んには其天賦が貧弱である。後天的の修養は余り之を疎にして居る。
斯の如くにして其作物に意義なきは当然である 建築の構造等の科学的の方面の修養の重ず可きは言を侯たない。
西洋建築ももつと根本から十分研究せねばなるまい。今日の如く唯欧米建築の皮層の模倣に止まるのは甚だ遺憾である。而して建築本来の意義を闡明すると共に其意匠を豊富にし識見を広むるため古今の優秀なる建築の研鑽を怠つてはなるまい。
此点で日本の建築家は自ら因襲的建築を造り乍ら反つて真の歴史的の修養を欠いて居る、又妄に新しがつて因襲を破壊すると壮語して其修養を怠り、高尚なる趣味の拠る可きなく、創造するに足る思想と力量となく欧米新様式の奇経をのみ模するものは新しき類型に捉はれたる価値なき輩で因襲に捉はれたる輩と相去る事遠くはない。
歴史的研究と云つたとて因襲に固着した過去の様式に捉はれた建築を作れと云ふのではない、建築の理解を十分ならしめるためである。
今日吾等日本建築家の最も有利なる立場は我等が捉はる可き過去の様式を持たないと云ふ点である。吾等は極めて自由なセセッショニストであると云ふ点である。其故に我等は建築の第一義なる根本理によつて驀進すればよい。
然るに今日のやり方は此根本から出達せずして単に皮相に拘泥して居る、其故に其建築には何の価値もなく又国民的の自覚もない。吾等は今日の借物の西洋建築に満足する訳には行かない。吾等の今日の要求に応じて吾等の国土から生え出た建築を持たない。

今度の戦乱の結果建築界に於ても他の産業と同じく国産奨励の声が高まつた、尤も建築では其主要材料の煉瓦、セメント、木材等は国内で優良なものが出来るし又運賃等の関係から従来より国産のみ用ひられた、
併し主要な材料の中でも鉄材などは大半を外国に仰いだ為此度も大恐慌を来たした、其他亜鉛板、グラス等も外国製である。装飾瓦だの窓の鉄製障子などは内国製品は不完全である、
其故全部国産にするとなると現今の処非常な不便不経済を感ずる、特に錠の如きは目下の内国製品は脆弱で用をなさない、之が為今迄は一般に外国品を優良と目し安建築とか工費不十分とか止むを得ぬとき内国品を用ふると云ふ傾向であつたが之からは不便乍ら内国品を用ひて其改良発達を促す傾向にもならう、装飾用品等は兎も角も主要な鉄材等は早く内国品の発達を見たい。
建築家はよく内国産材料の欠点を挙げて使用に堪えずとして製造物や請負人を攻撃する、之も当然だが併し私は一歩高きに昇つて建築の国産奨励と云ふことを考へて見たい。彼等建築家自らが意匠する建築は果して国産的であるか換言すれば国民的建築であるか。

斯う云つたとて私は何も過去の木造の日本建築を復興させやうと云ふのではない。建築は実需要に基くものであるが故に社会の状態が変り生活の様子が異れば其に従つて異るのは当然で其故今日の建築(主として公共的のもの)が煉瓦、石材、鉄材、コンクリート等の欧米風の構造のものであるべき事は論を俟たない。
今日の日本での生活状態は其公共の方面では過去の日本に対してよりも寧ろ欧米に似よつて居る、其れ故其建築も欧米風である事に異論はない。唯其建築が建築の本質も弁ぜず単に皮相を真似たもので日本国土に建てる建築として、日本人の建築として何等優秀な特徴を持たないのを遺憾とするのである。

一体美術上理論的に言つたら国民性の発露といふ事の価値は第一義の事では無いかも知れない。建築にすれば建築の様本義即ち建築が建てられた目的に適ひ、実需要を満足した其上美術的効果を発揮する事が主要な意義であつて之に其国民性が附与せられて居るか恁(ど)うかと云ふ事は第二義の事かも知れぬ。
民族的のものは狭い意味で面白味はあるが民族的であるからと云つて必ずしも優秀ではない。寧ろ民族を超越して始めて偉大なる芸術と称する事が出来もしやう。
併し他民族のものを模したのは勿論超民族性の作物ではない奴隷的のものである。或民族の一員として、其民族の特性が他の民族よりも優良である事は大なる満足であり、其民族の建築が他のものに比して優れた特徴を有つて居ると云ふ事は貴い誇でもある。特殊の国土を占有する特殊の民族は其特性を建築上にも印したい。
吾人の建築は其構造、材料設備等の点で欧州建築に則るにしても其表現は吾人独特のものでありたい。或る建築には必然的に民族性が現れて来るものでは有るが、其国土の気候風土等の天然の要求を真摯に解決して健全な特徴を発揮すると同時に其国民の優越な民族性を反映し穏健な風尚、優秀な風格を印したい。

我国も過去に於ては優れた国民の建築を有つて居る。京阪地方に散在する数多の古社寺は、それである。始めは三韓、支那からの輸入だが後之を日本化して立派な国民の建築になつて居る。のみならず木材を材料とした建築では。世界各国のものに比して頗る優良な地歩を占めて居る、材料の永久性に於て其規模の点に於て、譲る所があつても其美術的価値に於ては優れた作品である。
推古朝の建立になる大和の法隆寺は三韓(又六朝)建築であつて純日本建築とは言へないとしても、奈良の唐招提寺の本堂、東大寺の三月堂、新薬師寺の本堂、法隆寺西院の夢殿等の奈良朝の建築は唐の模倣ではあるが既に日本的になつて居る。藤原時代のもの仮令(たとえ)ば宇治の平等院の鳳鳳堂、日野法界寺の阿弥陀堂等は一層国民的である。
鎌倉時代に宋風の禅宗建築が新に渡来して大に影響を与へたが此時は推古朝の仏教建築渡来の時と異り日本にも既に発達した優秀な建築が存在せる事なれば新に影響は受けたが出来た建築はやはり国民の建築である。其後室町時代、桃山時代と建築界に消長があつたが徳川時代に至るまで立派に国民の建築が存在して居た。
而して我日本建築は其源は支那建築から岐れたものだが、国土の違ひ国民性の違により全く別途に発達して今日では全く面目を異にして居る。

明治の維新後国家の境遇が一変し、社会の状態が革新し生活の方法が変更した、於茲(ここにおいて)社会と生活との容れものである建築が一変するのは必然の結果である。
此等の建築の主なるものは殆ど外人によつて、後邦人によつて建築されたが何れも欧州建築の理由なき無批判の模倣である、維新後既に五十年にも近く、建築も著るしく進歩したと称されて居る、
成る程数十の欧風建築が建てられた、建築家の数も増した併しそれは単に量の上の増加で其実質に於て果してどれだけの進歩をしたであらうか、国民を満足せしむるに足る作品が出来たか、我等のものと称して恥ない作品が出来たか、どれもこれも欧米の出来合の建築の皮相の模傲に過ぎない、皆曰はゞ借物の建築である。
或意味からは此等の蕪雑な建築も目下の社会の混頓が雑駁と浅薄と不徹底を反映して居るとも云へやう。又軽燥な国民性の一面を理して居るとも見られやう、徳川後期の建築の通弊である大本を忘れて細部の施工にのみ腐心した同じ弊が今日の欧風建築にも蔓つて居る。此等も悪い意味の国民性の発露かも知れない。
併し此等の建築をして我国民性を代表せしむる事は何人も満足せぬ所であらう。近頃流行るどす赤い煉瓦と純白の御影石とを統一もなく雑駁に混合した田舎娘の厚化粧のやうな野卑な俗悪な落付のない建築の如きは国民の典雅な嗜趣を侮辱したものである、 実際此等の建築に対しても、国民性に対しても又国家の現状に対しても十分の理解なき建築家の建築であつて真の国民の建築ではない。
盲目的の模倣でなく、よし意匠の材料は欧米の建築によるとするも其適用は無意味でないものでなければならぬ 而して自己の内心から自発した思想で統一されねば存在の意義のあるものにはならない、之が為には国民の建築に対する理解と、建築家の自覚とを求めなければならない。

今の建築家は又自国の優秀なる過去の建築に対して余り注意を怠つて居りはすまいか、伊東、関野両博士を始めとし少数の篤志家は過去の日本建築を学術的に研究して孜々として倦まない。併し其他の大多数の建築家は之に対して殆ど何の興味も感じて居らぬ。
勿論此等の建築の出来た頃と今日とは全く時勢を異にして建築に対する要求も建築材料も全く変つて居て直接何等の参考にもなるまい。併し過去の建築に流露した国民の嗜趣を学ぶ事は将来の国民の建築を得るに対して極めて重要な事である、
私は単り建築に止まらず吾等の祖先の芸術を広く知る事は多大の利益と信ずる。又或る二三の熱心の国粋論者は今日の石造煉瓦若くは鉄筋コンクリートにも昔の木造建築の優れた形式を捨てかねて木造のまま若くは僅少の変更を加へて斗組や肘木を適用して以て国民性を得たりと為て居る。私は之には賛成出来ない、之ではまるで国民性なるものが建築の斗、肘木の中に潜んでゞも居るやうである。
材料が異り、目的が異る昔の形を其儘模する事は無意味である。過去の形式を思ひ起し国民的の感想を与ふる上に多少の便宜はあつても建築本来の意義に反する優秀な過去の建築を作つた吾等の祖先を地下に起たせたならば必度此んなやり方はしまい。
歎う云ふと日本建築を重視せよ、而して其手法を模するなと云ふ事になる。
曖昧のやうだが要は過去の建築に現れた風趣を汲まんと欲するのである。内的、精神的に其の暗示を索めやうと云ふのである。
之に比すれば外観の細部に木造の形式を伝ふるや否やは抑(そもそ)も末梢の事である。奈良の唐招提寺金堂などを見ると其斉整な典雅な落付いた風趣はパルテノン其他の古希臘の祠堂に現れたると同様に感ぜらるる、京都の三十三間堂の落付いた醇朴な趣は伊太利初期レネサンスの宮邸にも認めらるゝ、之は内容に一致する点があるからで木造の斗組などを其儘写さないでも古建築に現れた優良な国民性を新建築に伝へる事が出来やうと思ふ。
優秀な古建築を研究して自分の嗜趣を高め美術的の性格を涵養し同時に民族性の表現を知る事は今の建築家に緊要な事であらう。

目下の建築が国民的でもなく又優良でもない事については独り建築家にのみ責任を負はせるわけには行かない。社会も亦其責を分たねばならぬ。
世人は全く建築的興味を感じない、尤も建築的興味を感ずる程の優良な作物が無いからでもあらうが優良なものを得んと努力せねばなるまい。自分の郷土自分の都市が外国模倣の無意味な建築で充されるのを晏如として(「落ち着いて」の意)見て居るのは余り無神経すぎる。
世人は建築するに当り美術的なる優秀な手腕を持て居るからと云つて建築家を選みはしない。唯世間的の地位が高いとか知合の続き合とか老練とか云ふので依頼するので優良なものを得やうと努力はしない。絵画彫刻では其人の手腕を認めて依頼する。又展覧会等で手腕を現し又好成績を得れば依頼者も増すと云ふ事だが建築界に於ては斯く機会も少く又稀に然う云ふ機会があつたとしても其故に建築を依頼さるゝと云ふ事は全く無い、斯うして優秀な青年建築家の手腕は死蔵されてしまう。
模倣や取り合せを事とする建築家は知らず、自己の内心に発酵する思想を表現して真摯に活生活の要求を解決せんと企つる青年建築家にとつては其製作は非常な労作であると同時に最大の喜悦である、芸術に志す者にとつて其製作の機会のない程惨(みじめ)な事はあるまい。
画家や彫刻家は依頼がなくとも試作する事も出来やう 併し多大の工費を要する建築では試作は絶対に出来ない。労作を忍んで意匠を製図に表はしても製図は製作の手段で之が為に愈製作欲を煽るに過ぎない。斯して青年建築家には其の理想を実現する機会さへ与へられない。
而して新しい都市は所謂経験ある老練なる建築家の手で日一日と欧米からの借物の、活生活と一致しない不経済陳腐な出来合の建築で填められて行く、世人は一刻も早く優良な建築を推奨せねばなるまい。

要するに新日本の建築は建築の根本主義に基いた国民的のもので無ければならぬ、
而して之に到達するの道は、広く国民に対しては国民の自覚で、之を建築家に望めば建築に対する根本的理解と欧州建築の確実な研究と日本古建築の鑑賞とで、世人に対しては権威ある建築批評と価値ある建築の奨励と建築趣味の普及とで其上に猶時日を借さねばならない。

(大正三年十二月廿日稿)

 表記の原則
・旧字は現在使われる字に改めた。(與→与、國→国など)
・歴史的仮名遣いはそのままにした。
・一部、振り仮名を付けた。
・適宜改行を入れた。

 

新建築の意義

(建築雑誌331号、大正3年、1914)

新建築の意義

  正員 工学士 岡田信一郎     

今日は建築学会の大会と云ふ極芽出度き時に多数諸君の前に私のやうな若輩が講演いたすことの名誉を荷ひましたのを自分は非常に有難く存する次第であります、唯今私の前には建築界の耆宿(「老いて徳望・経験のすぐれた人」の意)辰野博士が御所感を御述べになりました、又私の後には新に泰西の文物を視察されて御帰りになつてまだ帰朝後日浅くして訓はゞ船室の香が抜けやらぬ新進の佐野工学士、田村工学土の御両君が新しい講演をなさると云ふ事で、其間に立ちました自分は甚だ光栄でありますと同時に実は正直に申しますと甚だ窮窟に感ずる次第であります、自分の浅学非才が発露せらるゝ訳で甚心細い、お静聴下さる諸君に対しても甚恐縮致します 
唯今辰野先生の御所感を拝聴いたしましたが、目下の建築界の欠点と云ふやうな所を極めて正確に御認めになつてさうして今の建築界の陋弊に対して適当な御配剤御投薬になつたのであります、私の次に御述べになる御両君の御説は勿論非常に有益なことと唯今より拝聴するのを喜んで居ります、此等の立派な御説は謂はゞ博覧会本館建築のやうに誠に立派なものでありますが此に比べますと私のはさしづめ売店のやうななもので粗製乱造はあらかじめお見逃しを願たい、
新建築の意義と云ふ看板は御大層でありますが、之も売店の広告的看板でありまして内容は予め御推察でもありませうが看板とは副はないかも知れません。

先づ最初に申上げて置きますが、茲に新建築と云ふ題を掲げてありますが、此新建築と云ふことは私の此講演では多少広い意味でありまして、近頃一般に広く欧羅巴亜米利加等で行はれて居ります昔の様式から離れた建築を総て籠めて新建築と云ふ名の下に申上げたいと思ひます、単に独逸墺太利の新派建築に付てばかりではない、
而して此新建築が一時の流行であるか、或は又存在すべき意義のものであるかを見たい、且又其新建築の意義は何であるか、其拠て根拠とする所は何であるかと云ふことを少しく考へて見たいと思ひます。

今更申すまでもなく、埃及アッシリアの古昔に源を発した建築は次第に発達して希臘、羅馬、初期基督致、ビザンチン、ロマネスク若くはゴシック、レネサンスとそれからそれと次第に移り変つて滞り無く工合宜く進歩して来ました、
所が最近十九世紀に至つて建築の進転が止つたやうに思はれます、仮令ば建築の進歩を流水に譬へて見ますれば、今まで工合宜く流れて居つた所の水が止つた、即ち溜りになつた池になつたと云ふやうなものである、
勿論十九世紀になつても此溜り水が或場合は其時代のクラシッシズムスの風潮から刺戟されて再び希臘の流を流れんとし、又ローマンチシズムと云ふ、風潮の下にゴシック・ロマネスクの中古の流れを逆流しやうと云ふ傾向を呈した場合もある、併ながら概して全体を通じて見、又十九世紀の末期の有様を見ますと、殆ど水の流れ口が無い、次第次第に其池水が増して溢れて来て今日ではドチラかに途を求めなければ将に溢れ出すと云ふ有様であらうと思ひます、
而して又今日では其水が多少どちらかに流れ掛つて居ると云ふやうな形跡のあることが見受けられます、例を挙げて申しますと、墺太利に於けるセヽッション式とか、或は仏蘭西に於けるアール・ヌボー式とか、或は独逸に於ける近世式とか、或は亜米利加に於ける新クラシック式とか亜米利加構造的様式であるとか、種々なものがありまして、それ等のものが流れ口になるのではなからうかとも思はれます、

併ながら此何れの口が真の流れ口となつて此から久しく滞つた建築が流動するか、又は其他に新たに別の流れ口が出来るかと云ふことは非常に興味のある問題であらうと思ひます、私は今日此建築の池の溜りが将にドコかに溢れやうとして居る有様を非常な興味を有つて見て居ります。どちらの方が本当の流れとなつて其所から現代の建築の流れが流れて行くかと云ふことは自分の如き短見者の遂に知る事は出来ませぬ、
併ながら其流れは最早や再び過去の流れを流れないことは確かであります 又何れの口から流れ出るにしても其の流れ方が昔の流れ方と違つたものであると云ふことだけは予め断言が出来やうと思ひます、なぜとならば今後流れる地勢は昔の地勢と変つて居る、土地の状況が昔の状況と変つて居る、例へば昔は川の間を流れたものが今度は平地を流れる或は昔は高原を流れたものが今度は瀑布となつて落ちると云ふ風に昔と異つた流れ方をすべきことは確かであります、それは地勢が変つて居るからで建築にして見れば、今後の建築は昔の建築と異なるべきことは確かである、而も其変り方は水の流れで言って見ますと、急流のやうに若くは瀑布のやうに著しく際立つて変ると思ひます、
而して動いて居るのが其渦中ではハッキリ分りませぬが、今日は既に其流の口にあつて流れて居るのであるかも知れない、或は後世になつて建築の歴史を翻いて見たならば此大正三年なるものは既に業に(ママ)此流れの中の一つの時代であるかも知れない、而して目下の新建築は此を根拠にして将来の建築が発達するかどうか分りませぬが、兎に角将来は変つて行くと云ふ点から見ますと、今日の新建築はタダの流行ではなく、其点は確実な重要な意義を有つて居ると思はれます。
いつぞや建築学会の通常会に於きまして伊東博士が「建築進化の原則から見たる将来の様式」と云ふ極めて有益な且つ興味の津々たる御講演をなされました、其中に建築は種々の影響を受けて進化するものであると云ふことを御教示になりました、実に建築は周りの状態に変化あり、又其与ふる影響が異れば必ず変るべきものである、新しい建築が起る可きは理の当然である、
又総て物は進むにも退くにも必ず拠る所がなければならぬ、進む可らざるに進むのは突飛である軽佻でありますが、進むべき時に進まぬのは迂愚である、守る可らざろを守るは株を守つて兎を獲んとする亜流である、極めて馬鹿な話である、それで今日の建築の状態は果して進むべき時代であるか、或は守るべき時代であるかと云ふと、是は論ずるまでもなく、進む可き時代である、過去の建築が次第次第に流動して来たのを見ても今日以後のものが過去のものと異つて流動すべき事は明かである、
亜米利加で新建築に優俊なるフランク・ロイド・ライトと云ふ人があります、其人が「自分は過去の伝習に忠実ならん為に過去の伝習を打破せんとす」と云つて居ますが、是は決して堅白異同の弁(「詭弁」の意)ではない、其言葉通り解釈して差支ないと思ひます。

建築界の現状は過去の如何なる時代にも見なかつた極めて著しい回転の気運に際会して居るやうに思はれます、其原因は沢山ありますが、其中重要のものを挙げますと、第一サイエンスの発達、第二建築目的の変化、第三材料及構造の変化、第四思潮の変化、第五交通の発達、第六経済状態、第七生活状態の変化、第八美術工芸の発達等であります、其他細かく数へれば切りも無いことでありますが、私が重もなる原因と見るのは先づそれ等であります、今余り充分の時間もありませぬから、それに付て極概略の考へを述べます。

第一 科学の進歩、発達と云ふことは近代思潮の根本に深く影響して居ります 生活状態にも変化を与へた、又直接建築に取つては建築の材料構造に非常な進歩を与へたものである、謂はゞ是が近代の総ての変化の原動力である、之に依つて総てのものが動き出す、建築もサイエンスの発達に依つて動き出してをる、昔は車の如く動いたのがサイエンスの発達の為に汽車若くは自働車の如く建築が動いて之により近代建築は著しく科学的に発達して居ります。

第二 建築目的の変化と云ふのは、例へば昔は大建築と云うと寺院であるとか、城廓であるとか、宮殿であるとかに殆ど決まつて居つた、所が近頃では杜会の状態が変つた為に建築せらるべき目的が変つて来て建てられるものが変つた、
公庁会社其他種々の公共的のものが建てらるゝ、住宅にしても単に大邸宅のみではなく、近頃は一般の人の住む普通の住宅が建築の中心となつて居る、同じ寺院にしても過去の寺院は唯神様を祠つて置くとか、唯祈りをするとか云ふやうな簡単な所であつたが、近頃は説教演説の会館であつて音響上の細かな目的も果さなければならぬと云ふやうに目的が変つて来て居る、且又需用が精細になつて昔のやうに唯四角な部屋を繋ぎ合せたものでは現代建築の目的を満足することが出来ない、要するに要求が複雑になつて居る、従つて現代の建築は其細かい目的に一々適応しなければならぬ。目的の変化と要求の複雑とが明に認められます。

第三 は材料構造の変化でありますが、是は鉄骨とか鉄筋コンクリートとか云ふやうに建築の根本材料が著しく変化して居る。又細かな装飾的材料も新しいものが出来て居る、引括めて言ふと此等の材料は構造的のもの装飾的のもの共に追々天然的でなくなり、益々人工的のものに発達して居るやうに見られる、
例へば元は石材で造つたものが現今はコンクリートで造るとか、或は石材で装飾したものが現今はテラコッターを用ゐてやるとか、云ふやうに人工的材料が天然的材料の位置を奪つて居る 又構造法は益々科学的に発達をして居る、而して昔の人の思ひ及ばないやうなものも容易く構造されて居る、
其一例は摩天建築の如きものでバベルの塔が天に聳えて居つたのは昔の物語に過ぎないが、数十階数百尺の大履が甍を列べて居るのは紐育に於ける現実であります、過去に於て何人がかゝるものを夢想したらう、其故に当初にはスカイ・スクレーパーの如きは美術的建築ではないと言つて批評を避けた建築評家もあつた 実に彼等が教へられた教條の中にはかかるものは無かつた、彼等の尺度では此新建築をはかる事は出来ないのであります、
然し突飛なおどかしで無く科学的な構造により実需嬰を充たして合理的な真面目なものは之も権威ある新建築の一と思はれます、さう云ふ風に構造界も変化して居る、斯く材料、構造に大変化があるにつれ建築の形式もそれに件つて変化しなければならぬ場合であらうと思はれます、
此点に付ては先きほど辰野博士が目下の日本建築の状態は余りに美術的に傾いて居ると云ふ御心配をなされたやうでありますが、私の見る所ではさうは思つ居りませぬ、決して構造界も疎かにされて居ない、仮りに今日の建築に於て美術界と構造界と二つに分けて考へることが出来るものとして、それを権衡に掛ければ今日の状態は美術界の方が寧ろ閑却されて居りはしないかと自分は見て居ります、併し今辰野先生の御考の如く果して構造界が閑却されて居.つたならばそれこそ我建築界に取つて一大事である、殊に新建築界に取つて一大事である、新建築に於ては構造を生命とする美でなければ真の美でないと思ひます、
其点は長くなりますから此所では述べませぬが、兎に角新しい構造に適する形式を探らなければならぬ、此点でも新しい建築は過去の形式も異つた新しい形式を採らなければならぬことは明かであります、又鉄筋コンクリート構造に於ては猶一層新形式が必要と云ふことは明瞭なことであらうと思ひます。

第四 は思潮の変化でありますが、是は科学の発達に件つて人間の外部生活に変化が起る、従つて人間の内部生活即精神的方面に影響が加はつて思潮に大なる変動を来して居る、此思潮の細かい変化などは自分達の分るものでありませぬ、又此所で喋舌るべき時間もありませぬ、要するに現代思潮の根本には科学を土台にした所があらうと思ひます、最近の新理想の説と雖 科学を土台にしたと云ふのが其特徴であらうと思ひます、同じ理想と言つても是は頗る合理的である、夢想兵衛の胡蝶の羽叩き軽い夢の如き理想ではなくしてプロペラの音勇ましく大空を翔ける飛行機の如く極めて合理的の理想であります、思潮の変動を通じて科学を根本にしたと云ふことが明かに窺はれると思ひます、
猶近世思潮の一面として自由の精神、個人性の発露、過去の伝習の廃棄等を見る事が出来ます、而して新建築に於ては其傾向が特に著しく出て居るやうに見受けられます、此点が又新建築の重要な意義の一つであらうと思ひます。生活を切実に重要視して居る思潮の傾向も其住宅建築等に窺ひ知られます。

第五 の交通の発達と云ふことも是も思潮の上、材料の上若くは科学の上等に種々重大な関係がある、又建築の上にも重大な関係を及ぼして居ります、世界の建築は国民性又は風土気候と云ふことから生ずるものゝ細かな相違を除けば全体に於ては次第に著しく共同性を有つて来て居ります、世界の建築は追々一つの形式に纏りつゝあると思ひます、新建築はさう云ふ点に於ても其傾向に一致して居るやうに見られます。

第六 は経済状態の変化でありますが、経済は建築に大関係があるものであります、
金が無ければ家が建てられない、パルテノン祠堂其他のアデンの有名なテンプルは先づ古今を通じて建築界の珍宝と称され居る、此テンプルもペルシャの戦争に勝つて後ペリクレスがデロス同盟の資金を私して莫大な黄金を使用したからあゝ云ふ立派な殿堂が出来た、羅馬建築の壮観は羅馬帝国の権力富力を立証して居る、又ゴシックの寺院も中古民人の熱誠な信仰と努力とを示して居る、羅馬のセントピータースの寺院も法皇の権力富力の結果である、東西本願寺の建築などは小さな建築ばかりある日本では先づ大きなものであるが、あれなども宗教の威力で細かな金を集めて一つの大きなものになつた経済上の結果である、
然るに近来の経済的状態は建築に対して余り寛大ではない 今一つの例を引いて見ますと、世界一の富豪と称せらる、カーネーギー氏が世界の平和と云ふ大事業に寄与して建てた、平和宮殿も金が無い為に初めの設計通りの立派なものが出来ない、近頃設計が変更されて半分未成品のやうなものが出来上つて居る、
又日本のやうに陸には百萬の大軍を擁し、海には数十萬噸の艟艨(どうもう、「軍艦」の意)を浮べて強国と言つて誇つて居る国でも国政の根元たる貴族院衆議院.の議事堂を建てるのに度々企てゝ幾度か中絶して居る現状である、
目下の経済状態は外国にしても日本にしても建築に取つては余り有利でない、其結果としてメカニカルの材料、ナショナルの意匠が発達することは明かである、新建築は又此点に根蒂を置いて居ると思ひます、極めて贅沢な無意味な装飾と云ふものは現代人の美とする所でない、例へて見れば建築と経済と云ふ立場からは、今日は建築の飢饉のやうな状態である、飢饉の時には豆や きらずも大牢(「ご馳走」の意)の滋味である、腐つた鯛よりも清新な豆腐料理で食ふ方がよい、腐つた鯛のやうな過去の伝習をはなれて合理的のものを造ると云ふのが新建築の行きかたである。

第七 に生活状態の変化であります、是は益々複雑になつて来る、夫に従つて衣食住の住の如きはそれに適応しなければならぬ、
昔は一寸角もある大きな字を見て子曰有朋自遠方来不亦楽乎とやつて居つた其時は螢の光りほどの行燈で宜かつたが、今日は一寸角の中に何百字と云ふやうな書を読まねばならぬ、昔は三燭か四燭の光りで明るいとして居つたのが今日では十六燭の電気でも暗い、或はタンタラム或はタングステンと益々明るくなつて、明るい光りが非常に要求せられる、今に夜の方が明るくなつて昼間はくらくていけぬと云ふので昼寝て夜働く時代が来るかも知れない、それは即ち生活状態の変化である、
従つて建築もそれに適応して変つて来る、今日でもコックを捻ると水が出て来るとか、或は暖房が十分行届いて居るとか云ふものでなければ完全な建築とは認められない、そう云ふ設備の充分な家で且内部の装飾などが心地よくて中で工合よく生活すると云ふことが一の美であらうと思ひます、外から眺めて此家は麗はしいと云ふのも建築の美でありますが中に這入つてそれを使用する場合に装飾や、光線や、色彩や便利や設備の色々の点から快く感ずると云ふことも建築の重要な美である、
其点から今日の複雑なる生活状態に工合宜く満足を与へるやうな建築が成功した建築である、即ち美なる建築である、新建築はさう云ふ方面にも重きを置いて居るやうに思はれます。

第八 の美術工芸の発達と云ふことも是も見逃すことの出来ない大きなことである、一体人間はどんなものに対しても之を美しくしやう、綺麗にしやうと云ふ考へを有つて居る 人間の関係する者で何一つでも美を欲しないものはない 
能く土木と建築と二つに分けて一方は美術的であり、一方は美術的でないと言ふけれども、土木工事にも美の無いことはない、美はしく見え無くても宜いやうに考へて勝手なものを造つて居る者がありますが、如何なるものと雖も人の目に触るゝものは麗はしく造らねばならぬ、単に建築だけ美術であつて土木が非美術であると云ふ理由は私には了解が出来ない、唯何れに重きを置くかと云ふ差はあるだらうと思ひます、此水入れにしろ此コップにしろ経済状態に応じて出来るだけ美しくするのが人間の至情である、所で現在に於きましては日常使用する工芸品を美術的にしやうと云ふ企てが昔から見ると著しいやうに思ひます、
而して之が建築と連絡して日用品を美化して合理的の美を得やうとして居る、総てを融合して全体の上で纏つた美を得やうと云ふやうなやり方である、それが新建築の中に著しく認められますが、是も一つの重要な点であらうと思ひます。

今まで申上げましたやうに今日は周りの状態が昔と変つて居ります、それで建築も無論其変つたものに適応しなければならぬのでありますが、今日の一般建築界のやり方はどうであるかと云ふと、今日一般の有様は過去の建築様式と云ふものを然るべく取捨塩梅して、適当に排列して新しい需要に当てやうと苦心して居る状態であります、
一つの例を挙げますと、鉄骨構造にカーテン・ウォール・システムと云ふのがある、鉄骨構造は鉄骨を以て総ての荷重を支へるのが至当である、それ故壁も薄くて済み丈夫に出来て経済的である、然るに過去のレネサンス式などに無暗に執着して柱などを建てゝ飾らうとする結果今日猶無理に壁を厚くし、或は補強式などと云つて無用な厚い壁にし鉄骨の効用を滅ずるやうな馬鹿をやつて居る、日本では馬鹿な事所ではない、是は当然の事と見られて居りますが、構造に重きを置いて考へたならば是は馬鹿げたものである、此の如きことは昔の形式を伝へて而して今日の実際の需要をどうか斯うか滴足させやうとする結果斯う云ふ不都合な折衷と云ふやうなことをやつて居るのであると思ひます、
要するに此やり方は昔の先祖から伝つて来た素袷大紋長上下などの衣裳が如何にも立派なものであるから、それを洋服に仕立て直して今日之を着ると云ふ考へと同じである、中には仕立て直さず其儘着ると云ふ大胆な建築家さへ見受けらるゝのであります、墺国セセッションの大家として日本にも喧伝されて居るオットー・ワグナーが言つたことがあります、人は何故に昔の着物を着ないのに単り建築のみ過去の伝習に捉はれて居るかと、是は一理窟あります、衣服を例に取つて見ますと、衣服は人の身体を蔽ふて塞暑を防ぎ、又其働きに便宜であると云ふ実用の役目を果して其上に外観が麗はしくあるを要する、衣服は実用に適つたものを着るべきである、其故に実用が異れば又其形態が変らねばならぬ、

如何に我々の祖先が元亀天正の乱世に甲冑で功名を立てたからと言つてそれを今日の戦場で着る訳にいかぬ、所が建築の方はさう云ふやうなことを屡々やつて居つても人が怪まない、それが普通であるやうである、
美観と云ふことは実用に応じて変化するものと思ひます、幾ら美観美観と言つても実用の用途を充たすことが出来ないものは決して美観を呈さない、仕事をする時には適当な仕事着が効(か)ひがひしい快感を与へる 襷も掛けないでぢやらぢやら台所で働いて居る女などのふしだらな姿は快感を与へはしない、職人の法被掛のいなせな姿も要するに働くといふ実用に適合した軽快な風であるから多少の快感を与ふるのである。甲冑衣冠束帯とりどりに美しいには相違ありませぬが、是は芝居の舞台の上、若くは時代祭りの際などに用ゐらるべきものであつて今日の社会で平生着ても決して美感を与へない、芝居的の特別な場合は美観を与へませうが、普通日用の場合は決して美感を与へない、之は単に見馴れないからと云ふばかりではない、今日の火事場のやうな激烈な世の中に於ては余り悠長で適当しない姿であるからであります、
建築も全く同様である ゴシック式は鎧武者の如く雄々しい凛凛しい、クラシック式は衣冠束帯の如く典雅である、此等は過去に我我の祖先が造つた立派な式でありますが、今日の種々複難になつた社会的建築には適合しない 合理的でない、今日それを共儘引張り出して来たならば、今日博覧会に列べてある山車のやうに時代後れと云ふ感が出るのは無論であります、
振袖が美しいからと言つても振袖で働くのは芝居の鎌倉三代記の時姫か太閣記十段目の初菊のみであれも舞台の上であればこそ美しくも見える 平生働くのに振袖を振舞はされては溜らない、塩原多助の女房でも其働くに当つては惜気もなく振袖の双の袂を断切つた、然るに今日の賢明なる建築家は何故に猶且其色のあせた古い振袖を切り去る事を惜むか、過去の様式に捉はれて居るか、之れは極めて不思議なことのやうに思はれます。

建築の過去の種々のスタイルは我々の祖先が数千年の間に仕上げた所の立派な宝玉のやうなものであつてそれぞれ美点を有つて居る、併ながら是等過去のスタイルは既に過去のものになつて居る、而して此新しい時代の建築に昔のものを適用すると云ふことは要するに出来合ひ品を附け合せ、取り合せ、排列して意匠するのであつて建てらるべき建物の根本に依拠して有機的な建築を造る場合にはどうしてもかゝる出来合のものでは不便がある、不適当な点が起つて来ます、過去の様式をつぎ合せるのが建築意匠の能事ではない、
今日は実際の需要、実際の構造、実際の理想と云ふことを本にしてそれから次第に有機的に成熟するのが本当の建築であります、従来のやうに過去のものを寄せ集めて形造るのは適当な意匠法ではなからうと思ひます、所が過去のものには非常に美しくて立派なものが多い、それ故に知らず識らずそれに束縛され又それから立脚し易い、それ故多少反動的の意味もありますが、新建築に在つては現代に応じた実用と美術の問題で合理的のものを作るべき事を主とすると同時に一面過去のトラジションを仇敵視して無理にもそれから離れやうと努めて居ります、
此過去の伝習を脱離せんとする傾向は単に建築ばかりではない、先きほども申した通り一般の思想であつて特に伊太利の未来派の如きは其最激烈な代表者であります、それで他の建築ではそれほど激烈な傾向は認められませぬが、墺太利独逸あたりの新建築では無理にも過去を離れやうと云ふ傾向が認められます、而して又それが一つの特徴となつて居ります。

此際是はどうしたら宜いかと云ふと、自分の考へでは時代の新要求に対して始から昔の様式などを念頭に置かずに必要且充分のものを造るのが最も明瞭なやり方である、所が又或人が言ふには、人聞の意匠力は限りあるものである、我々祖先の遺した芸術的建築物は非常に良い手本である、且つ又昔の建築が発達した道筋は将来の良い手引である、今後の建築の良い手本である、それ故に是非とも過去を手本にしてそれに依つて進んで行くことが必要であると言つて居る、勿論私も其説は非常に価値があると思つて居ります、
意匠の材料として過去の様式や又過去の様式のデテールを用ゐることは妨げない、温故知新の便法であつて決して過去の様式を避け怖るゝ必要もない、昔の人の造つたものを材料として用ゐることは謂はゞ自分の親父さん祖父さんが作つた金を使ふやうなもので、我々に取つて至趣結構であつて盛んに使ふが宜い、併しそれを使ふ場所たるや正当でなくてはならぬ、独逸墺太利の新派建築家と称する人達でも過去の様式から暗示をかり、又或は埃及印度若くは東洋等広く各国の建築若くは各種工芸品等を研究してそれ等から意匠の材料を蒐めて居る、さう云ふ有様であるから過去の様式若くはデテールを自分の薬籠中のものとして新建築に応用することは適当であり、且つ又面白いことであらうと思ひます。

併し又爰に一つ注意しなければならぬことは、今日実際建築界でやつて居るのは過去の各様式のデテール、装飾等を建物の処々に附着し配付してそれをゴシック式とかクラシック式とか何々式と呼んで居るのである、一つの建物に無理にある様式のデテールを附けてそれを何々式と呼んで居る、燐寸箱の外にアーチを附けてゴシック式と呼び、同じ燐寸箱の外に柱をたてゝそれをクラシック式と呼んで居る、本質の者ではない 唯附加へたデテールを以て何々様式と呼んで居るのが今日の一般の有様であります、
過去の様式のデテールは其当時に於ては極めて重要な意義を有つて居たものであつて唯漫然美しいからと云つて出来上つたものではない、各々存在の理由を有して過去に於ては定めて合理的であつたのであります、然るに今日之をなにも有機的の関係のない新建築に適用するのは無意味に、不合理になりやすい、
一例を挙げて見ますとポインテットアーチはゴシック式の構造の上から抜去ることの出来ない必要なものである、ポインテットアーチが組合つて出来たものであつて是が無ければゴシック式は出来ない、それほど重要なものである、所が今日鉄筋コンクリートの家とか、或は鉄骨煉瓦の家とか云ふものにゴシック式と称して此ポインテットアーチを使用したら何うであらう 之は極めて無意味なものである、鉄筋コンクリートで造つた場合にはポインテットアーチは却つて不便であつてその存在の必要が無い、又形だけゴシック式にすることは無意味である、昔のゴシック式に於ては無くてはならぬのであるが、今日此ゴシック式を使ふ場合は有つても無くても宜い、尖つたものを附けなくても済むものである、其点から同じ尖つたアーチでも全く意味が違うのである、
過去のものでも其存在の理由が今日の建築にも同じく存するものであれば適用した所で差支ない、適用が一層自由であらうと思ひます、例へば柱で物を受けやうと云ふ場合に昔の希臘のオーダーから意匠を借りると云ふやうなもので存在の理由が同一であるならば適用して差支ない、要するに過去の様式のデテールは新建築意匠の材料であります、意匠の材料としてのみ存在し得るのであります、
所が過去の建築とは材料を異にし、又構造法を違へて居る所の現代の建築に於ては其儘適用したのでは今申した通り無意味になりますから之を今日のものに消化しなくてはならぬ、併し材料構造などが変つて居りますから、事実(ママ)言ふと消化して適用すると云ふ実際のケースは余り多くはないと私は思ひます、過去のものを使ふのは差支ないが、それを正常に使ふ場合は余り多くないだらうと思ひます、斯う云ふ点から新建築が外観の新形式を企るのも重要な意味がある、是は単に軽はづみの一時的流行ではないと思ひます。

新建築はスタイルとして之を概括的に、過去のものに比べると其外観に於ては或は洗練を欠いて居るかも知れませぬ、併ながら根本に於て健全な立派なものであるならば、外観を整へるのは後日に俟つても差支ない、此点で吾々は新建築の外観上の多少の欠点を責めるに余り急であつてはならないと思ひます、外観の欠点を責める為に内容の美点まで棄てるのは甚だ残念なことと思ひます、
実際私自身もセヽッション式其他独逸、墺太利の新様式の外観及共現状に就ては多少の不満足を感じ又之を筆にした事もある 特に趣味の上からは必ずしも新建築の外観に一々感服する訳でない、寧ろそれに対して遺憾を感ずる所が頗る多いのでありますが、根本の行き方は頗る面白いと思つて居ります、それで新建築のあるものゝ独墺の近世式の二派などの趣味が我々の趣味と一致しないと言つて新建築の根本全体を呪ふのは頗る間違つて居る、
元来国民性の相違もあり伝習の違もある故外部の装飾等に必ずしも一致しない点もありますが、其精神方針が健全であるならば之に準拠して我々の趣味に適当し、或は風土に適当したものを新に造り出せば宜い訳である、
先きほど辰野博士が構造のことを言はれた中に日本のやうな地震国に於ては鉄骨鉄筋が最上の材料と言はれましたが、此点に於ても外国のやり方を其儘真似ると云ふことは適当でないかも知れない、或はもつと改良する余地があるかも知れない、さうすると此点から自然外観に於ても日本のスタイルが起つて来る時があらうと思ひます、併し根本は同じく新建築の精神である、外形が変つても其根本は同じ精神を以て進んで差支ない、根本精神と云ことが新建築に極めて重要な点であると自分は考へて居ります、
先きほどから能く引合ひに出しますが、亜米利加のフランク・ライト此人は米国で独特の新建築をやつて居る人だが、自分の新建築のスクールの人々の作品に付て弁明して、夫等の人々の作品は或はシビヤーの生真面目のものであるかも知れぬが、是はフーリッシュなものではない、或は優麗な点が欠けて居るかも知れぬが適合を欠いては居らぬ、或はアグリーに見ゆる事があつてもフォールス虚偽ではないと言つて居る、
私は何れを採るかと云ふと、寧ろ間違つたフォールスの偽りの建築よりもアグリーの建築を選ぶ、事実虚偽の建築よりも昔の意味での美しくない建築の方を選ぶのである、今日成熟の途中にある新建築はその外形に於て成熟した昔のものとは比較にならぬ、或は形式に於ては昔ほど美しくないと言はれますが、併し是は進歩の途中にあつて其進歩は殆ど確かである、其やり方が正当であればそれが完全することは日を期して待つことが出来ると思ひます。

余り長くなりますが、最後にちよつと自分は教師を職として居りますので誤解なからん老婆心から一言申加へますが今迄漫然と新建築と言つて居ましたが、此所謂新建築に二つあらうと思ひます、
一つは外形の上であつて一つは内容の上である、外形の上の新建築と云ふのは曲線的のヌーボーが流行すればぬらくらした曲線のみの意匠をやり、或は直線からなるセセッションが流行すれば直線主義で、カーブやコンパスを止めて仕無ふと云ふやうなやり方である、詰り流行を逐ふて外形を真似るので、是は極めて無意味である、之れでは過去のスタイルを真似るやり方と一向選む所はない 新しいスタイルを真似るのも昔のスタイルを真似るのも其間に相違はないと自分は考へます、鸚鵡と云ふ鳥がありますが、あれは人の言葉を真似る、日本に居る鸚鵡は日本語を喋舌る、又外国に居る鸚鵡は確かに聞いたことはありませぬが、外国語を喋舌るだらうと忠う、此の外国語を喋舌る所の鸚鵡必ずしも日本語を喋舌る鶏鵡よりえらい訳でない、それと同じやうな訳で昔の建築を真似る所の鸚鵡が新しい建築を真似る鸚鵡より劣つて居ることはない、新建築を真似る鸚鵡が昔の鶏鵡よりえらい訳ではない、同じく鸚鵡である、此等の鸚鵡の作品は無論本当の建築ではない鸚鵡が人語を発するからと云つて人でないごとく新形式を真似ると云つても其作は新建築の実を備へて居らぬ。
此頃は独逸墺太利の雑誌も二十日か三十日もあれば日本に来るから、其真似をする一向手数が掛らぬのである、博覧会の出品の建築図案の中などにも間々最新流行の形式だけを真似たものがあります、私が今迄申上げたことが其者に賛成して居ると云ふ風に取られてはならぬと思つて茲に一言附加へた次第であります、
我々は現代か新建築に対して徒らに世の中の風潮を逐ふ所の軽躁者流を学ぶ必要は無い、それと同時に新しいとかハイカラとか云ふ俗語に驚いて余りに之を冷眼し対岸の火災視して世界の大勢から後れると云ふのも同じく愚者の事と思ひます、我々は今日の世界の新建築の行き方を見て其根本の主義に則り、其根本の精神に則り、其根本を追従し、其の外形に於ては其根本から自然に成熟したものを外形として進んで行つたならばそれが最も良い方法であらうと思ひます、
幸にして今日は佐野学士が現代欧米建築の趨勢と云ふことで欧米建築界のことを御話されるやうであります、同君が最新の実情を見て来られて、私が雑誌とか図書とか唯紙の上で見た世界の趨勢と向ふの現状と違つて居ることを御教授くだされたならば自分に取つて実に仕合せであります、又同君の御覧になつた所の建築界の現状が私の考へて居た所と同じものであつたならば自分の考へが一層確実にせらるゝ訳であつて是亦自分の喜ぶ所であります、大変長く御清聴を煩はしました(拍手)

 表記の原則
・旧字は現在使われる字に改めた。(與→与、國→国など)
・歴史的仮名遣いはそのままにした。
・一部、振り仮名を付けた。
・適宜改行を入れた。

 

オツトー・ワグネル(Otto Wagner)

(現代之建築1・2・3号、1914.11-1915.1)
オツトー・ワグネル(Otto Wagner)(上)
  工学士 岡田信一郎

此稿は嘗て雑誌「学生」の立志号[1914.9]の為に執筆したのを爰に其誤りを訂し又多少専門的事項を書加へて掲載する

レネサンス建築の末流

第十五世紀から四世紀間に亘つて欧州の建築界を風靡してさしも殷盛を極めたレネサンス建築も、其末勢は委微として奮はず漸く人心を倦ましむるに至つた、特に十九世紀の半頃各国に国家的観念が振興して建築も其影響を受けて所謂国家的([ルビ]ナショナル)建築として其国々の特色なる中古期の建築が復興された。而してレネテンス建築に対して陣鼓をならした。此の争の最も激しくして建築家及其鑑賞家が筆に舌に戦を挑んだのは英国で『様式の戦争』などゝ称されて居る。此等の復興されたゴシツクやローマネスクの中古の様式は近世建築の要求に適合する事が困難であるが故に間もなく宗教的建築以外のものには其勢を失した。其後の建築界即十九世紀末の建築界は一層混乱の渦中に陥った。建築史家或はエクレクチシズムの時代と称するが、一世の帰嚮(きこう)すべき様式のあるなく建築家は一定の針路なきが故に混沌の中を左右に彷徨して古来東西の様々な様式の範を求めて其手法を取り合せて、寄せ集めを事として居る。而して惰性の久しきレネサンス建築の形類によるものが多いが老大にして生気なき此式の末流は新時代の要求に合致すべくもない、新しき思想、新しき生活、新材料、新構造、新需用、何れも新建築を要求して止まない。於此 白耳義に、仏蘭西に、墺太利に独逸に、米国に新建築は起つた、而して其墺太利に起れるものセヽツシヨン建築であつて、オツトー・ワグネルは実に此派の泰斗である。

セヽツシヨン

新時代の新しい意義を以て芸術を取扱うとした墺太利の画家彫刻家建築家が旧派に反抗して結束して立ち其首都 維納府にセヽツシヨンなる旗印を掲げて新運動の勢揃をしたのは一八九七年の四月三日であつた。一体セヽツシヨン(Secession 独Sezession ゼヱツシヨン)なる語は分離と云ふ意味で此処では過去の旧伝習に捉れた旧臭いアカデミツクな流派に対する反抗の意を示して居て新思想を表現しやうと企てた画家彫刻家建築家の一団が其名称に選んだ名である。此団体の中には画家としては其首長に選ばれたルドルフ・フオン・アルト、やセヽツシヨンの先覚者と称されるテオドル・フオン・ヘルマル、や又新派中最も有名なグスターフ・クリムト等も居た。彫刻家としてはアルフォンソ・カンチアニやオトマル・シムコウイツツ等が居た。然し其新運動の中心となつて世間に目覚しい刺激を与へ人目を聳動したのは其建築と及び之に伴ふ美術工芸とであつた。建築は他の芸術に比すると流動性の少ないもので、世の思潮の変化と共に急激に変ずる事は困難であるが、此際、各芸術の首冠となつて、新芸術の先駆を為したるは頗る異とするに足る。而して又建築は其性質上一般世人を刺激することも大きく、且つ工芸美術と共に流行を喚起し易いため、此二者が専ら人の視聴を惹いて、セヽツシヨン式の名を専らにするやうになつた。日本でも近来セヽツシヨンと云ふ語が切りに建築や美術工芸に用ゐられて居るのは、かゝる由来からである。然るに実際に於ては建築及び美術工芸と絵画、彫刻とは其性質の上で一寸其運動を共にし難いので、其後建築家は多くセヽツシヨン団から退会して今は主として新派の画家、彫刻家のみから成つて居る。而してセヽツシヨン団は其後独逸のミユンヘン及びベルリンにも設立されて居る。今日では斯くセヽツシヨン団は画家、彫刻家のみの団となり、建築とは縁うすくなつたに関らず、セヽツシヨンなる俗名が反つて建築及び美術工芸の新派に冠せられるのは面白い事である。併し欧州ではセヽツシヨンなる語は新建築、新美術に関して日本で用ふるやうに盛に用ひられては居ない 或人は近頃の伯林のセヽツシヨンが、主として新派画家のみから成るのを見て、日本でセヽツシヨンなる俗称が建築及美術工芸に用ひらるゝのを、如何にも無法であるかのやうに云ふが、之は墺太利に於けるセヽツシヨン勃興の由来を知らないからで、其当時は此新建築にセヽツシヨン、新派建築家にセヽツシヨニスト等の語が用ひられた事は、墺国の建築雑誌『デル・アーキテクト』等を見れば分明する。又米国の雑誌等でも屡々セヽツシヨニストの語が用ひられて居る。此等が日本に伝はつたのであらう。勿論日本でのやうに流行的な俗称に用ひられたのではない。

近世建築

如斯(かくのごとき)セヽツシヨン派の勃興に際し、新建築の一団を率ゐて建築を新運動の主力たらしめ、因襲久しきに亘つた建築界に一大回展の機運を拓いたのは、一にオツトー・ワグネルの力である。ワグネルは画家、彫刻家の間に未だセヽツシヨンのやうな新運動に関する考が熟さない中に一八九五年の十月に『近世建築(Moderne Architektur)』なる一書を著して其新主張を発表した。此書は実に彼の新運動に対する第一の振鈴であつたのである。之より曩(さき)一年ワグネルは維納の皇室美術学院(K.K.Academie DerBildend en Künste)の教授に任ぜられたので、教鞭を執る傍ら其学生及び世間に建築の本来の性質と目的とに就て其意見を発表せんが為めに、此書を書き上げたのである。此書は其後数版を重ねて弘く世に行はれたが、最初に現はれた時にはワグネルの儕輩(さいはい)[儕=ともがらの意] は全然之に反対し、或は痴人の寝言と目して嘲笑を以て迎へたものも少くなかつた。併し進歩的の青年建築家のあるものは、彼の呼号に目覚めて大胆なる此新論著を歓迎し、其足踵に追従したのである。勿論此以前ワグネルは、其作物に多少新手法を試みたが、併し確然と新時代に適合すべき真の建築は此の如きものであると呼号してセヽツシヨンの機運を促進したのは此小著に於てである。而して此等の影響から既にセヽツシヨン団の旗挙の際には、彼の所見に賛して彼を援けて其新運動に加つた人々には、ホフマン・オルブリツヒの譜代を始め、尠(すく)なからざる俊髦(しゅんぼう)があつた。

若きワグネル

ワグネルは一八四一年七月十三日に、墺太利の首都維納の近郊ペンツリングに生れた。長じてクレムスミンステルの中学を経て維納の工業学校に学び、後伯林に留学して建築を専攻して再び維納に帰来してからは維約のアカデミーに入つた。其後建築家アウグスト・シカルドブルヒ(Algust Sicardburg)、ヴァン・デル・ニユール(Van der Nüll)の事務所に入つて其教導を受けた。此の両人は維納の宮庭歌劇場其他の建築家として知られて居る。伊仏系統の建築家である。此事務所ではシカルドブルヒが主として構造に関する方面を受持ちニユールが意匠を司つた。ワグネルが主として師事したのはシカルドブルヒで彼が若きワグネルに与へた感化は決して尠少ではなかつた。彼は維納の旧式の建築家の中では比較的建築の構造的原理の重要なことを理解した人であつて、且頗る建築常識に富んで居つた。此等からワグネルの構造的の方針、常軌を逸しない性質が由来して居る。又ワグネルの作物の有するクラシツク的の趣味も其師に負ふ所が多いやうである。ワグネルは一八六二年維納市公園の『クール・サロン』(一種の娯楽場)の懸賞競技の懸賞競技に主賞を得たが之は設計だけで彼の手で実施されたのでは無かつた。其以後彼は独立して建築の設計に従事し住宅建築事務所建築等を設計した。
斯く若きワグネルが其学習の時代を経て、漸く自立して建築家として其地歩を占めやうとした時代、即ち十九世紀の後半には、墺国の首都維納は盛大な建築期であつた。此時分に維納の市区の大改正がなつて、之に関与して当時独墺の有名な建築大家が其腕を振つた。即ちフエルステル・ハンゼン、シユミツト、ハーゼナウエル其他の諸士で、其作物の主なるものは、リング街や諸公園を飾る大建築で、今も維納の観物の一である。上掲の建築家は各々十九世紀末の大建築家として何れも有名で又其名声に適ふ大なる手腕と十分な智識とを有した人々である。併し彼は何れも或る過去の歴史的様式を追従して其により其建築を意匠した。而して其作物の中には或は歴史的様式で建てられては居るが、其建築の性質を表現し又作家の個性も現はれた十九世紀建築の有数な物もある。併し此等諸大家の追従者の為す所、其子弟の造る所は、多くは全然此等の過去の様式に捉はれた生命のない形式的の建築ばかりで、昔の建築から学んだ細部の手法を取り合せて設計すると云ふに過ぎなかつた。要するに精神のない模倣の作品ばかりである。此の如くにして、十九世紀末に於ては、維納の建築界は停滞しきつて、建築の理解、建築の趣味は墜落して、研究と云ふのも、要するに衒学的、皮相的のものとなり終つた。此の状態は独り墺太利のみならず、多少の別はあるが、十九世紀末には各国の建築が皆なこんな有様であつて、建築は行留りの態であつたが、此際ワグネルは起つたのである。而して建築に新生命を附与して、将来の建築の行くべき道を指示せんとしたのである。尤もセヽツシヨン式の他にも建築界の停滞した現状に抗して、仏国にアルーヌーボー式などが勃興したが形式と材料の適用等の間に十分の調和が無つた為めか、又は奇を好むこと甚しかつた為にか、工芸美術を他にして、建築に於ては遂に大なる勢力を為すに至らなかつた。 (大正三年十一月)

 

オツトー・ワグネル(Otto Wagner)(中)

ワグネルの理想

今迄の建築家の一般は、過去の様式からの色々の形式や手法を取捨塩梅して取り纏めることを一に其任務と考へて居たが、ワグネルの建築に対する態度は一層根本的のものであつた。彼は建築は人間の必要に応じ、又人間の要望に応ずる活力である、且つ同時に社会生活の永遠の記録であると考へた。而して建築は人智の最高の表現で、絶えず無上の際に到達せんことをつとめてゐる。又一面に於ては建築は近代生活のあらゆる要求に服従して、其用途を充さねばならぬ。建築家が社会の各般の必要を認めることは、其大なる任務で、其の必要、其目的が明かに認識さるれば、従つて之に適当なる材料と云ふ問題も解決される。此目的及び材料の二項から所謂形式若くは様式と称するものが定まつて来る。其故に汎く一般に適用されて、且つ妥当な様式と云ふやうな定まつたものがある訳はない。様式は此の絶えず変ずる二項から生ずる結果で、其決定は色々の事情、仮令ば土地の状況や、気候等其他色々のものに関して来る。而して生活の愉快を高むるに具合のよい色々の新しい方法や種々、なる設備や、新しい考案などは凡て悉く取り入れられねばならぬ等と云つてゐる。要するに建築は主として人間の考案力の発現で今日の複雑な社会生活の実需用に完全に適合し、各種の材料を用途に適して正常に使用し、材料の表現と形態の調和とを索め、合理的な新意匠を得やうとするのである 
ワグネルは必要と云ふ事を非常に重視した 而して”Artis Sola bomina Necessitas”(芸術は必要の他配偶を知らぬ)の語は彼が維納市の改正の競技図に書き込んだ金言で同時に之に副へた説明書の表題であって、之寔(まこと)に彼の建築観の根蒂(こんてい)である。過去の様式に対しては彼は厳乎たるセヽツシヨニストであつた。吾人の生活の状態、吾人の活力、吾人の科学的の進歩等は旧とは全く変つて居る 夫して刻々変りつゝある。芸術は其自身の時代の状況に表現を与ふ可きであると云つて居る。又人は昔の著物を着ないのに何故に単り建築のみ過去の因習に囚はれて居るのかなどとも云つて居る。然し彼は過去の建築を無視しはしなかつたのみならず、其の美を重重[=尊重?]することに於ても決して人後に落ちない。彼曰く真の建築家のみが古くして美しきものと単に古いばかりのものゝ区別をする事が出来る。かゝる人こそ美はしいものゝ無法な破壊にも又古い物の模倣にも賛成しないと。
ワグネルは又深く近代生活の根蔕を理解して其共和的社会的組織の建築にも表はるべきだと考へて居る。都市配区([ルビ]タウンプランニング)の問題に関して彼は我共和的の社会は生活法に於て経済問題の圧迫を感ずる。而して衛生と廉価が住宅にとつて必要で従つて住宅は皆一様のものになる可きである。此傾向が将来の都市の表現の本となる。同じ大さ同じプランの家が一つの大なる建築に集合すれば経済的であるなどゝ云つて同様な町家が建連[=並?]ぶべき事を予想して居る。此点に関しては彼も亦一箇の社会革命家である。

ワグネルの作物

一八九四年、彼は帝室美術学院の教授となつて、其新意見の下に数多の学生を養成した。而して彼は又建築技監に任命されて、先づ数多の停車場、陸橋等 維納主都鉄道に連関する建築を造つた。勿論之より曩(さき)にも銀行、浴場、其他住宅建築等ワグネルの作品は少くは無かつた。
又ブタべストの議事堂懸賞競技などにも応募したことがあつた。併し其斬新卓抜の意匠を以て、著しく人の注意を惹いたのは此等の建築からである。此等の建築は旅客の急速な、安全な愉快な旅行と貨物の便利な運輸との実用を主として意匠し之に適応した構造を考案して適当な材料を使用して運輸なる事業と調和し、使用した材料構造とも適合した新式新装飾を創出した。其鉄橋、手摺、入口の屋根、其他に使用した鉄材の装飾的手法は旧形式を全く離れて、比較的簡単で印象の深いものである。此等の鉄道に関したものは色々あるが其内特に有名なものはヒエチングの宮廷用停車場、カルヽスプラツツ停車場、ケテンブリツケン街停車場、鉄道収税本局、グムペンドルフ橋等、何れも大規模のものではないが、清新な宝玉のやうな作物である。又ヌドルフの水堰は土木工事が主であるが、其装飾は壮大な印象を与へる。其他貸事務所等の市街建築も数多あるが、フリードリツヒ街のものは維納近世市街建築の好標本である。ワグネルの数多の作物中、其理想を発揮して、新材料の適用と斬新な手法とを表示した。其代表的作物と称すべきものは、維納郊外のスタインホーフーの下部[→地域名]墺太利癩病院会堂と、維納の郵便局貯金局とである。又遂に実行はされなかつたが、維納の市立博物館の設計は斬新な極めて興味ある作物である。彼は又海牙の平和宮の懸賞競技にも指名され、審査の結果其設計は第四位に置かれたが、平面間取の簡単適截にして、而も統一ある美観を呈したのは、応募図案中の一異彩であつて、結果に於て第一位を占めなかつた云ふ事も、決して彼の盛名を傷けはしない。
ワグネルは其政府の技監である故従つて作物は多く公共的のものでセヽツシヨン団の他の建築家のやうに住宅はあまり多くない。又従つて美術工芸品も他の人々程数多くもないが併し其清楚な特徴は茲にも認めらるゝ。彼は又都市配区の意匠にも令名を有つて居る。而して一九一〇年米国の紐育市は彼を聘して其説を聞かうとしたが彼は同じ都市配区の問題で伯林の同展覧会へ出席したため渡米の機を失し米国では大に遺憾に感じたと言ふ事である、最後に誌す可き彼の作品は彼の皇立美術院で教養した数多の俊優な教弟である 之が為墺国建築界を裨益した事も尠少ではない。

 

オツトー・ワグネル(Otto Wagner)(下)

彼の建築の特質

彼の意匠になる此等の建築物は、何れも前掲の其新建築に対する所説を体現してゐる。即ち近代の実生活に遺憾なく適合して其用途を充して、且つ近代精神を表現せんとして居る。而して旧建築の模倣をさけ細かい部分までも過去建築の伝習を全然排除し、建築家の考案力を十分に発揮して、其構造の目的に適ふ材料を有の儘に使用して、材料の性質と構造法から自由に新しい形状、装飾を案出しやうとした。而て其手法は大胆で、簡素明瞭な、むき出しなものである。其故に其結果は極めて斬新で旧派の人からは建築では無いと云ふやうにも見られた ワグネルの趣味は其師シカルドブルヒの教養に負ふ所多く、建築の権衝や、釣合等に於ては概して穏健である。ワグネルを中心として起つたワグネルの門下は、中には随分大胆奇抜なものが少くない。而して其優秀なる或る物は新建築の為に気を吐く事、反つてワグネルの作品より著しいものもある。併し大体として見る時は、此等新建築の作品は、余りに新奇を索むる結果随分突飛なものを作る事も多く、根本趣味の銑練を欠くので、出来上りが粗硬なものもある。此点ではワグネルの作は急激なる新派の人々から見たら、多少歯掻い所があるかも知れぬが、清新な穏健なものとして、却つて世の歓迎を受けて居る。

郵便局貯金部と瘋癩院会堂

今彼の作物の中で最も代表的な建築を此に挙げて簡単な説明を試みやう。郵便本局貯金部は首都維納の中心に近くにあつて一九〇六年に落成した 三十七人の応募した競技の中で彼の作が当選したのである。挿図[外観の写真あり]によつて其大体を知る事が出来やうが、此建築の特徴は布置の簡素と手法の大まかな事により博大の趣を呈して且、極めて釣合のよい正面を有して居る 構造は鉄筋コンクリートで其の構造を無遠慮に暗示する外面装飾を用ゐて居る。即外部では下部は花崗岩板を上部は主としてラオス産の大理石板を鉄棒頭で壁体に張付け白銅鋲大[?]で取付けて居る 而して此の変化ある鋲頭の配置などが一種の装飾になつて居る。軒の突出したコルニスは鉄製で鉄の特徴を露出した簡単な意匠で大胆に設計されて居る。コルニスの上に色々の装飾的意匠が施されて居て、彼の好んで用ふる花輪飾などが用ひられて居る。此建物の正面には張出したポーチがある  柱は細き鉄柱を用ひ総ての意匠が邪魔にならぬやうに軽快に出来て居る。之は瘋癩院会堂にも用ひられて彼の常套手法であるが後の簡素な大理石の建築に対して仮設的の取付ものゝやうな感を起さず情楚[=清楚?]な調和を得て居る。此建物の内部は配置も装飾も非常に簡単であつて単に大理石の腰羽目を設けた位である。必要は美の唯一の配偶と云ふ彼の所思が茲にも発現されて居る。
下部墺太利 瘋癩院附属会堂は維納の郊外スタインホーフにある、汽車で維納に入る前に左方に当る丘の上に建つて其の特異な形の金色のドームは少からず旅客の警異を惹く、プランは四方の突出の同様な希臘十字形で外部は大理石を張つて簡単で且印象的である。内部は従来の会堂の陰暗な気持は全くなく、反つて明快な印象を与へる壁は音響の反響を防ぐため縦に波状をなして之が装飾の一助となつて居る。内部の装飾は主として祭壇に集中され此部には陸離たる天蓋が釣られてある、装飾は主として大理石と鋳銅とよりなつて居る、コロ・モーゼル氏の意匠になるトランセプトのステーンド、グラスは又極めて近代的のものである。装飾の特形は前の建築と同一系統に属するものである。

セヽツシヨン団の名士

時代の新機運に乗じて新しい材料や構造の頗る合理的な武器を携へて新建築の旗を押立て、旧様式の暴圧に反したワグネルの麾下は決して薄弱ではなかつた。数十の勇士鎧袖を連ねる有様であつた。ヨセフ・ホフマン、オルブリツヒ、コロ・モーゼル等の諸氏はセヽツシヨン団成立の時からワグネルを輔けて、其天才は寧ろワグネルにも勝ると言はれてゐる。オルブリツヒは後独逸のダルムスタツトに遷つて、若くして死んだが、ホフマンは今日維納の美術工芸学校の教職にあり、猶ほコロ・モーゼルと共に維納美術製作所を起し、新建築及び新美術工芸の中枢である。コロ・モーゼル又之を輔けて建築装飾及び美術工芸に天賦の才能を発揮して居る。其他ワグネルの直接指導を受けた門下又はワグネルの風を聞いて起つたものは数ふるに遑がない。斯くして維納は新芸術の中心である。爰(ここ)にワグネルに感ずべきは、其門下に自由に其天分を発揮せしめて決して之を自分の法式に束縛せぬ事である。斯くワグネルの呼号に目覚めたのは、独り維納のみではない。勿論時代の機運の然らしめる所とは言へ、墺独の各地群秀輩出して各々斬新な意匠奇抜な手法を以て旧建築の打破に力めて居る。新建築の此勢は何時迄続くか、遂に知る事は出来ぬが、併し最近の建築構造及び材料の革新に伴ひ、世態思潮の変じた新時代の実用を基とし、建築様式の革命を呼号する所に深い根蔕があると思はれる。私は強ち、今日日本にも ちよい/\行はれるやうな、薄つ片な、模倣的紙函の様なセヽツシヨンの建築までに賛意を表するのではないが、其根本を見て此式の前途を祝福する一人である。或はワグネルが其趣味に於てクラシツクの傾向を奉ずるを見て、又其作品の穏健なるに慊(あきた)らないで、ワグネルを難ぜんとする新建築の人々もある。然し行きづまつた建築界に、一大転回の気運を促成して、新航路に高く光明をかゝげたワグネルの功績は、何人と雖も否むことは出来ない。

現在のワグネル

今やワグネルは七十余歳の老翁として、墺太利建築界の中心となつて居る。其現在の官位は墺太利の宮廷建築技師で、政府の建築技監で、皇立美術学院の教授である 而して英国王立建築学会、巴里中央建築会、彼 得堡[=ペテルブルク]露西亜帝国建築会、ブルツセルの中央建築協会、アムステルダム建築奨励会等の、各国建築界の中心たる諸学会の名誉会員に推戴されて居る。而して先般 維納で萬国建築大会が開催された時には、其総裁として推戴されて居る。此の如く建築専門方面で、至上の栄誉を担って居るのみならず一般世上からも墺太利の誇として尊崇されて居る。而して一九一二年七月に彼の七十歳の誕生の祝賀があつて、墺太利闔国[=全国の意]の愛敬に捧げられた。 (大正四年一月)

図版
宮廷用停車場 外観、入口付近
市街鉄道陸橋
カールスプラッツ停車場
ヌンドルフ本堰
維納の某建築 軒付近
ワード13号邸 外観
帝国軍事博物館 パース
瘋癩院 外観、入口付近
ハーグ平和宮 正面詳細、塔部詳細
郵便局貯金部 軒付近(人型彫刻)、入口付近椅子

岡田信一郎

建築家・岡田信一郎(1883(明治16)年11月20日-1932(昭和7)年4月4日)


岡田信一郎は、大正から昭和初期にかけて、 歌舞伎座、東京府美術館、明治生命館など、 建設当時から話題になった作品を多く手がけた建築家である。
明治16年東京生れ。のちの首相、鳩山一郎とは同じ中学に通った竹馬の友で、一高、東大も同じだった。 政治・建築と活躍の場は異なったが、交友は生涯続いた。
東大建築学科を卒業後、東京美術学校(東京芸術大学)と早稲田大学で教壇に立ち、多くの後進を育てている。 明治45年に行われた大阪市公会堂の設計競技では30歳の若さで最優秀賞を勝ち取り、一躍名声を得る。 また、美人芸妓の万竜(萬龍)との結婚でも話題になった。
病弱なため海外留学の夢を果せなかったが、人一倍の読書で海外の建築事情に通じていた。
明治生命館の建設では病床から建設を指示していたが、完成を待たずに昭和7年逝去。 実弟の岡田捷五郎が後を引き継いで昭和9年に完成させている。

分離派建築会の展覧会を観て

(建築雑誌406号、1920.9)
分離派建築会の展覧会を観て
  正員 岡田信一郎

私は初め「分離派建築会の展覧会と其宣言を観て」と云ふやうな見出しで執筆するつもりで居た、併し其宣言や主張に対する批評を企てる事になると、建築の本来の意義とか現代の解釈とか云ふやうな事まで論じなければならない、而して建築の意義とか現代とか云ふ言葉は明瞭に分つて居るやうで実は甚だ曖昧に使用されて居るので此処まで突込んで評論する事は、ふだん不用意の私には急場には間に合はない。
其れ故に茲(ここ)では表題のやうに単に展覧会観覧の所感を述べる事とする、一体其の主張を検竅する事なしに其作品だけを論評する事は其本幹に触れずに枝葉だけを論ずるやうでもある。特に分離派会員諸君にとつては其作品だけを批評さるゝ事は定めし不満足であらうとも思ふ。併し一面から考へると技術者(芸術家と言っても宜しい)の立場からは、其の作品を通じて現はれる主張を以て其の真の主張と考へねばならない、
言葉の上の宣言やら主張ではいくら自由な理想が述べ得られても、之れが作品に現はれて確実に裏書せられない中は信用されて通用はしない。
特に抽象的な、壮麗に修飾された字句は其自身だけでは大きな価値を生じない
作品と云ふ確実な実印が捺されなければならない。此んな考へから差しづめ分離派展覧会の所感を述べる事とした、分離派建築会諸氏の宣言と論文も敬意を以て拝見した 之れに対しても愚存を開陳したいとも思って居る、特に独り分離派と云はず建築青年会其他 或は団体的集合はなさずとも一部青年建築家が現状打破の気運を気醸して居る事は注意すべき事象であるので、之に対する所感を申述べる機会を得たいと思って居る。
分離派建築会諸君の今度の運動に対して誰しも墺太利のセヽツション派の運動を思ひ起すであらう。墺太利のセヽツションに刺撃[=刺激]された事は其の名前からも分明である、しかし、会員諸君の主張が必しもセヽツションの当時の主張と同一であるか否かは遽(にわか)に断定出来ない。今分離派諸君が分離を主張せらるゝ対称[=対象]としての建築圏は、セヽツション派が分離を主張した如き建築圏であるか、若しくは其後の動揺を受けた建築圏であるかを明かにせねばならない、諸君の主張によれば後者の如くに思はれるが仮りに前者とすればセヽツション派が分離を宣言した当時の建築界の状況と、今日分離派建築家[=会?]が分離を発表した建築圏とは其の状况が非常に変つて居る、既に三十年の星霜を経た事でもあるし又皮層[=皮相]的の事にもせよ、当時セヽツションの人々の年品は異常の驚愕を喚起し異端を以て目された、今日ではセヽツション若しくは其の傾向の作品は決して珍らしいものでもなく、又其の主張も破壞的のものとも考へられず正当に享け入れされつゝある。たゞ建築家の手腕凡、意図怯にして独創的の実現を見ないで煩悶して居る現状である、建築界の基礎をなす大多数の青年建築家は誰れも当時のセヽツションの人々のやうに過去の捉はれから難脱しやうと云ふ主張に共鳴しないものはあるまい。
分離派の人々は恐らく今の此の心を不徹底な微温的であるとしてもつと徹底的な改造を企てたわけであらう。キユビスト[立体派]に続いたフユチリスト[未来派]の激烈に共鳴するのであらう、其の宣伝や運動振にも多少は其の面影が思はれるやうである。クラシツクとルネサンスの故地伊太利に生れた反動的の未来派の行動と宣言とは極めて真摯熱烈なものであつた、しかし其の欠陥とする所は作品を通しての主張が之に伴はない点である、今我(わが)分離派諸君に対して私は失礼ながら之と同じやうな感を懐くのである。諸氏の宣言と主張は未来派程ではないが可成盛んなものである、併し其の作品は普通一口にセヽツションと称されるものと大した距離がない、頃日伊太利未来派のアントニオ・サンテリア、マリア・チアットオネの発表された、建築意匠程の新味も徹底味も見受けられない、諸氏の宣言によれば現時の建築圏を分離の対称とせらるゝやうに思はれるが、作品によつて見れば嘗て墺太利セヽツション団が対称としたのと同様な建築圏であるやうにも思はれる。言を簡にすれば諸氏の宣言は勇にして作品は怯であると云ふのである。
作品を通覧した感想を挙げると第一通じて建築の芸術味を強調せんとする努力が窺はれる、石本君の言ふ「建築は一つの芸術である、このことを認めて下さい」と云ふ希望がどの作品にも観取される。併も従来の所謂芸術的建築の行き方のやうに虚飾の濫費をする事なしに此の目的を遂げやうと努力して居るやに見受けられる。私の言ふのは芸術味が現はれて居ると云ふのではない。現はさうと云ふ努力が認められると云ふのであるが、此の努力は蓋し分離派建築会の発生や、熱心な行動を喚起した原動力であらう。
次に構造の軽視の傾向が著しく目についた、理論上分離派の諸君は構造が建築美の一大要素である事を忘れたものではあるまい、構造の満足以上に何者かを掴まんとするのであらう。けれども作品によれば構造軽視の傾向が大なる事を遺憾とする。「建築に於て構造は決して萬能ではない、」「今日は構造が重視されすぎて居る」此う云ふ考が或は諸君の中に潜んで居るのでは無からうか、思ふに今日建築の構造は決して重視されすぎては居ない、たゞ其の芸術的考察が充分でないと、技術者が芸術的手腕を欠くためにかゝる錯感を起し易いのである。'嘗て数年前建築学会の大会で辰野博士が建築の構造的発展の急務を喚ばれたに対し私は芸術的方面の閑却されて居るのを遣憾とした、之に対して後に伊東博士は理智による科学的な構造方面は順調に発展し得るが、感情に基礎を置く芸術的の方面は斯く容易でないと説かれたのを思ひ起す。当時でも今日でも私は建築構造が軽視されてよいとは考へては居ない、否寧ろ今日の建築構造は比較的幼稚で其の研究も多く静力学の版囲[=範囲?]を脱し得ず、余り多くの仮定を基礎とするのを遺憾に思ふ。而して建築が構造的であればある程 其の芸術味を発揮するのに都合のよい基礎を持つと信ずる、勿論構造だけが建築美の基礎をなすと云ふ構造萬能には考へて居ない。此の構造と芸術味との関係に就ては後藤慶二君の作品などが明確な説明を与へて呉れる。分離派諸君の作品のあるものは構造的解決を生命とする題目のものである。夫に関らず構造の研究が充分でなく、且構造を芸術味の基礎とする努力をしなかつた事を残念に思ふ。
近頃私は建築の間取りの問題が比較的閑却されるのを遺憾に思つて居た。而して此の展覧会を見て此の念を一層深くした。分離派諸君は過去からの分離を強調される。此の分離の最も必要なのは間取の問題ではあるまいか、生活の改造(生活改善と云ふ熟字の意味する少さい問題ではない)と云ふ事が近代の標言であるが、其の改造せらるゝ生活の容れものとして建築が改造せらねばならないのは、分離派諸君の分離を唱へらるらゝ一原因であらう。此の解决は主としてプラニングの攻究である、作品の多くに或は姿図の奇抜はある、併しプラニングの新味を発見し得ないのを極めて遺憾とする。私は一般に外面の新奇な建築だけをモダーン建築と称するのを甚だ遺憾に思ふ、ワグネルのバイロイトの歌劇場は外観は平凡な建築である、然し内部は観覧席を扇形にして、見たり聞いたりする事の便宜をはかり、劇場に合理的な改造を加へた。だれも言はないが私は之を新建築と考へる、又[アルバート・]カーンの作つたヒル氏記念の講堂は、平面も切断もパラボラに法つて構架した、外観何の珍奇もないが、之は新建築の重要な事例と考へる、此の方面では私は分離派諸君の作品に深い失望を感ずる、曩(さき)に議院建築案の競技の発表があるや非難の声が喧ましかつた、中にも建築青年会は堂々其の所信を天下に開陳し或は竸技のやり直しとか対案作製とか熱心に努力した。私は現代に立脚して過去の様式建築を排斥する此等の人々の声を一面合理であると同情しながらも其等の諸君の言動が大に徹底しないと考へたのは主として平面間取りの問題からであった。当局から与へられたあの議院建築の間取り図は過去の頭で過去の考から様式的立面を頭の何処かに置きながら作つた間取である、此の平面図を無批評に受け入れ之に基いて作製した図案がよく其の形態が独逸風であらうと米国風であらうと私には之を新建築と考へる事は出来なかつた、議院建築に対する批評は先づ其の官僚的な、非開放的な弾力性を欠いた平面間取りに対して下さる可きものであると考へた。私は茲に分離派の展覧会を見て平面間取りに対する新しい研究の欠乏をあきたらず思ふて同時に議院建築に対する青年会の批難が同じく根本問題を逸したのを想記して遺憾の念を深くする。
(なお)一つ私の予想を裏切つたのは意匠に於ける立体的、彫刻的要素の少ない事である。分離派諸君は多く大学の建築学科で乙部に所属し、装飾画や絵画、彫刻に熱達[熟達?]して居ると云ふ評判であつた 特に彫刻は新海竹太郎君の指導を受けて進歩見る可きものがあると言ふ事であつたので其影響が建築図案に現はれる事と予想して居つた、然るに図案の多くは旧来の墺国セヽツション派の作物に多い、平面によりてのみ取囲まれた固著[=苦?]しいものが多く彫刻のやうに多種多様の豊富の面を取扱つて立体的の面白味を移入したものは少なかつた。私は今迄の建築で使用する面が甚だ貧弱で正面と側面と屋面との三つで夫れも多く平面から成立ち、従て立体形の特徴を発揮する事が少く、平板硬粗であるのを不満足に考へ、技巧上彫刻の取扱ふやうな変化の多い多種多樣な面が移入されたら形態に面白い開発も出来やうと思つて居る、独逸建築の成る物には此の傾向を観取する事が出来る。此の為に彫刻の教養が建築家の技巧の上によい影響を及ほすと考へて居たので私かに分離派諸君の作品に此点の期待を持て居た。諸君の余技的作品には彫刻もあつたにかゝはらず、此影響の現れないのを不足に思ふ、展覧会場で私は此の感想を話したに対して石本君は還元的の意向から最も簡単なものから出発する為に此の態度を取つたと弁明された。私は其後分離派の冊子に載せられた石本君の還元論を読み-建築の還元形に就いて考へる-と云ふ項に記載された立体の還元論を読んだ 之に対しても愚存があるが此処には省略する。
分離派会員諸君の個々作品について簡単に所感を述べさして貰はう、石本君の涙凝れり(ある一族の納骨堂)は整つた作品である。一般に最も好評であつたやうだ、細かい部分の技巧も行き届いたものであるが、夫れだけやり過ぎて敦厚(とんこう)の趣をして居る、納骨堂としてはもつと土の感があつても冝しからう 高いホールを設けながら室内配景図に其の高大な感を出さなかったのは遺憾である。材料使用の点、平面、構造に対しても再考を煩はしたい点がある。配景図は気持よく出来て居る。
堀口君のある会室、美術館への草案共に立体的の感に富んだ作である、冊子に平面図が載って居ないのを遺憾とするが、外形では内容を表現しては居ない。ある仼宅への一草案は、月並の平面である 分離派と主張する以上はもう少し現代生活を改善する位の意気込みでありたい。「精神的な文明を来らしめんとして集る人々の中心建築への試案」、間取りに遺憾を感ずる、瞑想の広間の説明を聞かなかつたが周囲から見る効果が覚束ない、此処の構造と他の部の構造が、一致しないやうに思はれる、立面でも集会場を強調する必要があらう
瀧澤真弓君の山岳倶楽部、立面で山岳重畳の感じが出て居るのを面白く思ふ、併し各部が技巧上の統一がなく数多の家の集合であるかにも見える 細部の施工上はもっと大胆な企画をしても宜しからう、平面、平凡、公会堂は側面も平面図もないので、評言は控えるが入口と其上の大張出窓には面の試が現はれて居る。村役場は面が貧弱で、もう少し大自然の気持が欲しい。
矢田茂君の或る美術村の会館、ホフマンの門下マルゴールド等の気持がある。職工長屋、平面に改善の余地を認める、又家具を配置し如何に生活するかを具体的に考へてやらなければなるまい、クレマトリウム面白さうだがまだ分らない 双塔より単塔の方がよくは無からうか。
山田守君の習作(大ホール)は構造的に企画して面白く効果を得らる可きもので構造に振[=触?]れる事を避けた無意味の作品である、国技館や独逸の某博覧会の式場に示唆を受けたものと思はるゝが早大本年の卒業計画にも同種のものを見受けたが之は構造的にも努力した作品であった、同氏公会堂は平面図も切断図もないので巨大な砲弾形の高塔の価値が分らない。山奥に公会堂を置くわけも。
森田慶一君の屠場は配景図のさつぱりした形態には快いものがある。
今回展覧会に於ける諸氏の作品の多くは大学にける練習作と卒業製作とで自然自己の自由な発表を遠慮された点があるかも知れない、第二回展覧会に於てはもつと自由なしかし合理的な作品を拝見したいと思ふ分離派諸君の真摯と熱心がいつまでも其の真醇を失はずに永続せん事を企望[=希望]して筆を擱く、妄評多罪。

はじめに

建築家・岡田信一郎(1883年-1932年)関係のデータを集めます。

*作品

*著作

*文献

別ブログは気ままに書きすぎてゴタゴタしてますので、このブログは(なるべく)ちゃんと書きたいと思います。