岡田信一郎アーカイブ

建築家岡田信一郎について

オツトー・ワグネル(Otto Wagner)

(現代之建築1・2・3号、1914.11-1915.1)
オツトー・ワグネル(Otto Wagner)(上)
  工学士 岡田信一郎

此稿は嘗て雑誌「学生」の立志号[1914.9]の為に執筆したのを爰に其誤りを訂し又多少専門的事項を書加へて掲載する

レネサンス建築の末流

第十五世紀から四世紀間に亘つて欧州の建築界を風靡してさしも殷盛を極めたレネサンス建築も、其末勢は委微として奮はず漸く人心を倦ましむるに至つた、特に十九世紀の半頃各国に国家的観念が振興して建築も其影響を受けて所謂国家的([ルビ]ナショナル)建築として其国々の特色なる中古期の建築が復興された。而してレネテンス建築に対して陣鼓をならした。此の争の最も激しくして建築家及其鑑賞家が筆に舌に戦を挑んだのは英国で『様式の戦争』などゝ称されて居る。此等の復興されたゴシツクやローマネスクの中古の様式は近世建築の要求に適合する事が困難であるが故に間もなく宗教的建築以外のものには其勢を失した。其後の建築界即十九世紀末の建築界は一層混乱の渦中に陥った。建築史家或はエクレクチシズムの時代と称するが、一世の帰嚮(きこう)すべき様式のあるなく建築家は一定の針路なきが故に混沌の中を左右に彷徨して古来東西の様々な様式の範を求めて其手法を取り合せて、寄せ集めを事として居る。而して惰性の久しきレネサンス建築の形類によるものが多いが老大にして生気なき此式の末流は新時代の要求に合致すべくもない、新しき思想、新しき生活、新材料、新構造、新需用、何れも新建築を要求して止まない。於此 白耳義に、仏蘭西に、墺太利に独逸に、米国に新建築は起つた、而して其墺太利に起れるものセヽツシヨン建築であつて、オツトー・ワグネルは実に此派の泰斗である。

セヽツシヨン

新時代の新しい意義を以て芸術を取扱うとした墺太利の画家彫刻家建築家が旧派に反抗して結束して立ち其首都 維納府にセヽツシヨンなる旗印を掲げて新運動の勢揃をしたのは一八九七年の四月三日であつた。一体セヽツシヨン(Secession 独Sezession ゼヱツシヨン)なる語は分離と云ふ意味で此処では過去の旧伝習に捉れた旧臭いアカデミツクな流派に対する反抗の意を示して居て新思想を表現しやうと企てた画家彫刻家建築家の一団が其名称に選んだ名である。此団体の中には画家としては其首長に選ばれたルドルフ・フオン・アルト、やセヽツシヨンの先覚者と称されるテオドル・フオン・ヘルマル、や又新派中最も有名なグスターフ・クリムト等も居た。彫刻家としてはアルフォンソ・カンチアニやオトマル・シムコウイツツ等が居た。然し其新運動の中心となつて世間に目覚しい刺激を与へ人目を聳動したのは其建築と及び之に伴ふ美術工芸とであつた。建築は他の芸術に比すると流動性の少ないもので、世の思潮の変化と共に急激に変ずる事は困難であるが、此際、各芸術の首冠となつて、新芸術の先駆を為したるは頗る異とするに足る。而して又建築は其性質上一般世人を刺激することも大きく、且つ工芸美術と共に流行を喚起し易いため、此二者が専ら人の視聴を惹いて、セヽツシヨン式の名を専らにするやうになつた。日本でも近来セヽツシヨンと云ふ語が切りに建築や美術工芸に用ゐられて居るのは、かゝる由来からである。然るに実際に於ては建築及び美術工芸と絵画、彫刻とは其性質の上で一寸其運動を共にし難いので、其後建築家は多くセヽツシヨン団から退会して今は主として新派の画家、彫刻家のみから成つて居る。而してセヽツシヨン団は其後独逸のミユンヘン及びベルリンにも設立されて居る。今日では斯くセヽツシヨン団は画家、彫刻家のみの団となり、建築とは縁うすくなつたに関らず、セヽツシヨンなる俗名が反つて建築及び美術工芸の新派に冠せられるのは面白い事である。併し欧州ではセヽツシヨンなる語は新建築、新美術に関して日本で用ふるやうに盛に用ひられては居ない 或人は近頃の伯林のセヽツシヨンが、主として新派画家のみから成るのを見て、日本でセヽツシヨンなる俗称が建築及美術工芸に用ひらるゝのを、如何にも無法であるかのやうに云ふが、之は墺太利に於けるセヽツシヨン勃興の由来を知らないからで、其当時は此新建築にセヽツシヨン、新派建築家にセヽツシヨニスト等の語が用ひられた事は、墺国の建築雑誌『デル・アーキテクト』等を見れば分明する。又米国の雑誌等でも屡々セヽツシヨニストの語が用ひられて居る。此等が日本に伝はつたのであらう。勿論日本でのやうに流行的な俗称に用ひられたのではない。

近世建築

如斯(かくのごとき)セヽツシヨン派の勃興に際し、新建築の一団を率ゐて建築を新運動の主力たらしめ、因襲久しきに亘つた建築界に一大回展の機運を拓いたのは、一にオツトー・ワグネルの力である。ワグネルは画家、彫刻家の間に未だセヽツシヨンのやうな新運動に関する考が熟さない中に一八九五年の十月に『近世建築(Moderne Architektur)』なる一書を著して其新主張を発表した。此書は実に彼の新運動に対する第一の振鈴であつたのである。之より曩(さき)一年ワグネルは維納の皇室美術学院(K.K.Academie DerBildend en Künste)の教授に任ぜられたので、教鞭を執る傍ら其学生及び世間に建築の本来の性質と目的とに就て其意見を発表せんが為めに、此書を書き上げたのである。此書は其後数版を重ねて弘く世に行はれたが、最初に現はれた時にはワグネルの儕輩(さいはい)[儕=ともがらの意] は全然之に反対し、或は痴人の寝言と目して嘲笑を以て迎へたものも少くなかつた。併し進歩的の青年建築家のあるものは、彼の呼号に目覚めて大胆なる此新論著を歓迎し、其足踵に追従したのである。勿論此以前ワグネルは、其作物に多少新手法を試みたが、併し確然と新時代に適合すべき真の建築は此の如きものであると呼号してセヽツシヨンの機運を促進したのは此小著に於てである。而して此等の影響から既にセヽツシヨン団の旗挙の際には、彼の所見に賛して彼を援けて其新運動に加つた人々には、ホフマン・オルブリツヒの譜代を始め、尠(すく)なからざる俊髦(しゅんぼう)があつた。

若きワグネル

ワグネルは一八四一年七月十三日に、墺太利の首都維納の近郊ペンツリングに生れた。長じてクレムスミンステルの中学を経て維納の工業学校に学び、後伯林に留学して建築を専攻して再び維納に帰来してからは維約のアカデミーに入つた。其後建築家アウグスト・シカルドブルヒ(Algust Sicardburg)、ヴァン・デル・ニユール(Van der Nüll)の事務所に入つて其教導を受けた。此の両人は維納の宮庭歌劇場其他の建築家として知られて居る。伊仏系統の建築家である。此事務所ではシカルドブルヒが主として構造に関する方面を受持ちニユールが意匠を司つた。ワグネルが主として師事したのはシカルドブルヒで彼が若きワグネルに与へた感化は決して尠少ではなかつた。彼は維納の旧式の建築家の中では比較的建築の構造的原理の重要なことを理解した人であつて、且頗る建築常識に富んで居つた。此等からワグネルの構造的の方針、常軌を逸しない性質が由来して居る。又ワグネルの作物の有するクラシツク的の趣味も其師に負ふ所が多いやうである。ワグネルは一八六二年維納市公園の『クール・サロン』(一種の娯楽場)の懸賞競技の懸賞競技に主賞を得たが之は設計だけで彼の手で実施されたのでは無かつた。其以後彼は独立して建築の設計に従事し住宅建築事務所建築等を設計した。
斯く若きワグネルが其学習の時代を経て、漸く自立して建築家として其地歩を占めやうとした時代、即ち十九世紀の後半には、墺国の首都維納は盛大な建築期であつた。此時分に維納の市区の大改正がなつて、之に関与して当時独墺の有名な建築大家が其腕を振つた。即ちフエルステル・ハンゼン、シユミツト、ハーゼナウエル其他の諸士で、其作物の主なるものは、リング街や諸公園を飾る大建築で、今も維納の観物の一である。上掲の建築家は各々十九世紀末の大建築家として何れも有名で又其名声に適ふ大なる手腕と十分な智識とを有した人々である。併し彼は何れも或る過去の歴史的様式を追従して其により其建築を意匠した。而して其作物の中には或は歴史的様式で建てられては居るが、其建築の性質を表現し又作家の個性も現はれた十九世紀建築の有数な物もある。併し此等諸大家の追従者の為す所、其子弟の造る所は、多くは全然此等の過去の様式に捉はれた生命のない形式的の建築ばかりで、昔の建築から学んだ細部の手法を取り合せて設計すると云ふに過ぎなかつた。要するに精神のない模倣の作品ばかりである。此の如くにして、十九世紀末に於ては、維納の建築界は停滞しきつて、建築の理解、建築の趣味は墜落して、研究と云ふのも、要するに衒学的、皮相的のものとなり終つた。此の状態は独り墺太利のみならず、多少の別はあるが、十九世紀末には各国の建築が皆なこんな有様であつて、建築は行留りの態であつたが、此際ワグネルは起つたのである。而して建築に新生命を附与して、将来の建築の行くべき道を指示せんとしたのである。尤もセヽツシヨン式の他にも建築界の停滞した現状に抗して、仏国にアルーヌーボー式などが勃興したが形式と材料の適用等の間に十分の調和が無つた為めか、又は奇を好むこと甚しかつた為にか、工芸美術を他にして、建築に於ては遂に大なる勢力を為すに至らなかつた。 (大正三年十一月)

 

オツトー・ワグネル(Otto Wagner)(中)

ワグネルの理想

今迄の建築家の一般は、過去の様式からの色々の形式や手法を取捨塩梅して取り纏めることを一に其任務と考へて居たが、ワグネルの建築に対する態度は一層根本的のものであつた。彼は建築は人間の必要に応じ、又人間の要望に応ずる活力である、且つ同時に社会生活の永遠の記録であると考へた。而して建築は人智の最高の表現で、絶えず無上の際に到達せんことをつとめてゐる。又一面に於ては建築は近代生活のあらゆる要求に服従して、其用途を充さねばならぬ。建築家が社会の各般の必要を認めることは、其大なる任務で、其の必要、其目的が明かに認識さるれば、従つて之に適当なる材料と云ふ問題も解決される。此目的及び材料の二項から所謂形式若くは様式と称するものが定まつて来る。其故に汎く一般に適用されて、且つ妥当な様式と云ふやうな定まつたものがある訳はない。様式は此の絶えず変ずる二項から生ずる結果で、其決定は色々の事情、仮令ば土地の状況や、気候等其他色々のものに関して来る。而して生活の愉快を高むるに具合のよい色々の新しい方法や種々、なる設備や、新しい考案などは凡て悉く取り入れられねばならぬ等と云つてゐる。要するに建築は主として人間の考案力の発現で今日の複雑な社会生活の実需用に完全に適合し、各種の材料を用途に適して正常に使用し、材料の表現と形態の調和とを索め、合理的な新意匠を得やうとするのである 
ワグネルは必要と云ふ事を非常に重視した 而して”Artis Sola bomina Necessitas”(芸術は必要の他配偶を知らぬ)の語は彼が維納市の改正の競技図に書き込んだ金言で同時に之に副へた説明書の表題であって、之寔(まこと)に彼の建築観の根蒂(こんてい)である。過去の様式に対しては彼は厳乎たるセヽツシヨニストであつた。吾人の生活の状態、吾人の活力、吾人の科学的の進歩等は旧とは全く変つて居る 夫して刻々変りつゝある。芸術は其自身の時代の状況に表現を与ふ可きであると云つて居る。又人は昔の著物を着ないのに何故に単り建築のみ過去の因習に囚はれて居るのかなどとも云つて居る。然し彼は過去の建築を無視しはしなかつたのみならず、其の美を重重[=尊重?]することに於ても決して人後に落ちない。彼曰く真の建築家のみが古くして美しきものと単に古いばかりのものゝ区別をする事が出来る。かゝる人こそ美はしいものゝ無法な破壊にも又古い物の模倣にも賛成しないと。
ワグネルは又深く近代生活の根蔕を理解して其共和的社会的組織の建築にも表はるべきだと考へて居る。都市配区([ルビ]タウンプランニング)の問題に関して彼は我共和的の社会は生活法に於て経済問題の圧迫を感ずる。而して衛生と廉価が住宅にとつて必要で従つて住宅は皆一様のものになる可きである。此傾向が将来の都市の表現の本となる。同じ大さ同じプランの家が一つの大なる建築に集合すれば経済的であるなどゝ云つて同様な町家が建連[=並?]ぶべき事を予想して居る。此点に関しては彼も亦一箇の社会革命家である。

ワグネルの作物

一八九四年、彼は帝室美術学院の教授となつて、其新意見の下に数多の学生を養成した。而して彼は又建築技監に任命されて、先づ数多の停車場、陸橋等 維納主都鉄道に連関する建築を造つた。勿論之より曩(さき)にも銀行、浴場、其他住宅建築等ワグネルの作品は少くは無かつた。
又ブタべストの議事堂懸賞競技などにも応募したことがあつた。併し其斬新卓抜の意匠を以て、著しく人の注意を惹いたのは此等の建築からである。此等の建築は旅客の急速な、安全な愉快な旅行と貨物の便利な運輸との実用を主として意匠し之に適応した構造を考案して適当な材料を使用して運輸なる事業と調和し、使用した材料構造とも適合した新式新装飾を創出した。其鉄橋、手摺、入口の屋根、其他に使用した鉄材の装飾的手法は旧形式を全く離れて、比較的簡単で印象の深いものである。此等の鉄道に関したものは色々あるが其内特に有名なものはヒエチングの宮廷用停車場、カルヽスプラツツ停車場、ケテンブリツケン街停車場、鉄道収税本局、グムペンドルフ橋等、何れも大規模のものではないが、清新な宝玉のやうな作物である。又ヌドルフの水堰は土木工事が主であるが、其装飾は壮大な印象を与へる。其他貸事務所等の市街建築も数多あるが、フリードリツヒ街のものは維納近世市街建築の好標本である。ワグネルの数多の作物中、其理想を発揮して、新材料の適用と斬新な手法とを表示した。其代表的作物と称すべきものは、維納郊外のスタインホーフーの下部[→地域名]墺太利癩病院会堂と、維納の郵便局貯金局とである。又遂に実行はされなかつたが、維納の市立博物館の設計は斬新な極めて興味ある作物である。彼は又海牙の平和宮の懸賞競技にも指名され、審査の結果其設計は第四位に置かれたが、平面間取の簡単適截にして、而も統一ある美観を呈したのは、応募図案中の一異彩であつて、結果に於て第一位を占めなかつた云ふ事も、決して彼の盛名を傷けはしない。
ワグネルは其政府の技監である故従つて作物は多く公共的のものでセヽツシヨン団の他の建築家のやうに住宅はあまり多くない。又従つて美術工芸品も他の人々程数多くもないが併し其清楚な特徴は茲にも認めらるゝ。彼は又都市配区の意匠にも令名を有つて居る。而して一九一〇年米国の紐育市は彼を聘して其説を聞かうとしたが彼は同じ都市配区の問題で伯林の同展覧会へ出席したため渡米の機を失し米国では大に遺憾に感じたと言ふ事である、最後に誌す可き彼の作品は彼の皇立美術院で教養した数多の俊優な教弟である 之が為墺国建築界を裨益した事も尠少ではない。

 

オツトー・ワグネル(Otto Wagner)(下)

彼の建築の特質

彼の意匠になる此等の建築物は、何れも前掲の其新建築に対する所説を体現してゐる。即ち近代の実生活に遺憾なく適合して其用途を充して、且つ近代精神を表現せんとして居る。而して旧建築の模倣をさけ細かい部分までも過去建築の伝習を全然排除し、建築家の考案力を十分に発揮して、其構造の目的に適ふ材料を有の儘に使用して、材料の性質と構造法から自由に新しい形状、装飾を案出しやうとした。而て其手法は大胆で、簡素明瞭な、むき出しなものである。其故に其結果は極めて斬新で旧派の人からは建築では無いと云ふやうにも見られた ワグネルの趣味は其師シカルドブルヒの教養に負ふ所多く、建築の権衝や、釣合等に於ては概して穏健である。ワグネルを中心として起つたワグネルの門下は、中には随分大胆奇抜なものが少くない。而して其優秀なる或る物は新建築の為に気を吐く事、反つてワグネルの作品より著しいものもある。併し大体として見る時は、此等新建築の作品は、余りに新奇を索むる結果随分突飛なものを作る事も多く、根本趣味の銑練を欠くので、出来上りが粗硬なものもある。此点ではワグネルの作は急激なる新派の人々から見たら、多少歯掻い所があるかも知れぬが、清新な穏健なものとして、却つて世の歓迎を受けて居る。

郵便局貯金部と瘋癩院会堂

今彼の作物の中で最も代表的な建築を此に挙げて簡単な説明を試みやう。郵便本局貯金部は首都維納の中心に近くにあつて一九〇六年に落成した 三十七人の応募した競技の中で彼の作が当選したのである。挿図[外観の写真あり]によつて其大体を知る事が出来やうが、此建築の特徴は布置の簡素と手法の大まかな事により博大の趣を呈して且、極めて釣合のよい正面を有して居る 構造は鉄筋コンクリートで其の構造を無遠慮に暗示する外面装飾を用ゐて居る。即外部では下部は花崗岩板を上部は主としてラオス産の大理石板を鉄棒頭で壁体に張付け白銅鋲大[?]で取付けて居る 而して此の変化ある鋲頭の配置などが一種の装飾になつて居る。軒の突出したコルニスは鉄製で鉄の特徴を露出した簡単な意匠で大胆に設計されて居る。コルニスの上に色々の装飾的意匠が施されて居て、彼の好んで用ふる花輪飾などが用ひられて居る。此建物の正面には張出したポーチがある  柱は細き鉄柱を用ひ総ての意匠が邪魔にならぬやうに軽快に出来て居る。之は瘋癩院会堂にも用ひられて彼の常套手法であるが後の簡素な大理石の建築に対して仮設的の取付ものゝやうな感を起さず情楚[=清楚?]な調和を得て居る。此建物の内部は配置も装飾も非常に簡単であつて単に大理石の腰羽目を設けた位である。必要は美の唯一の配偶と云ふ彼の所思が茲にも発現されて居る。
下部墺太利 瘋癩院附属会堂は維納の郊外スタインホーフにある、汽車で維納に入る前に左方に当る丘の上に建つて其の特異な形の金色のドームは少からず旅客の警異を惹く、プランは四方の突出の同様な希臘十字形で外部は大理石を張つて簡単で且印象的である。内部は従来の会堂の陰暗な気持は全くなく、反つて明快な印象を与へる壁は音響の反響を防ぐため縦に波状をなして之が装飾の一助となつて居る。内部の装飾は主として祭壇に集中され此部には陸離たる天蓋が釣られてある、装飾は主として大理石と鋳銅とよりなつて居る、コロ・モーゼル氏の意匠になるトランセプトのステーンド、グラスは又極めて近代的のものである。装飾の特形は前の建築と同一系統に属するものである。

セヽツシヨン団の名士

時代の新機運に乗じて新しい材料や構造の頗る合理的な武器を携へて新建築の旗を押立て、旧様式の暴圧に反したワグネルの麾下は決して薄弱ではなかつた。数十の勇士鎧袖を連ねる有様であつた。ヨセフ・ホフマン、オルブリツヒ、コロ・モーゼル等の諸氏はセヽツシヨン団成立の時からワグネルを輔けて、其天才は寧ろワグネルにも勝ると言はれてゐる。オルブリツヒは後独逸のダルムスタツトに遷つて、若くして死んだが、ホフマンは今日維納の美術工芸学校の教職にあり、猶ほコロ・モーゼルと共に維納美術製作所を起し、新建築及び新美術工芸の中枢である。コロ・モーゼル又之を輔けて建築装飾及び美術工芸に天賦の才能を発揮して居る。其他ワグネルの直接指導を受けた門下又はワグネルの風を聞いて起つたものは数ふるに遑がない。斯くして維納は新芸術の中心である。爰(ここ)にワグネルに感ずべきは、其門下に自由に其天分を発揮せしめて決して之を自分の法式に束縛せぬ事である。斯くワグネルの呼号に目覚めたのは、独り維納のみではない。勿論時代の機運の然らしめる所とは言へ、墺独の各地群秀輩出して各々斬新な意匠奇抜な手法を以て旧建築の打破に力めて居る。新建築の此勢は何時迄続くか、遂に知る事は出来ぬが、併し最近の建築構造及び材料の革新に伴ひ、世態思潮の変じた新時代の実用を基とし、建築様式の革命を呼号する所に深い根蔕があると思はれる。私は強ち、今日日本にも ちよい/\行はれるやうな、薄つ片な、模倣的紙函の様なセヽツシヨンの建築までに賛意を表するのではないが、其根本を見て此式の前途を祝福する一人である。或はワグネルが其趣味に於てクラシツクの傾向を奉ずるを見て、又其作品の穏健なるに慊(あきた)らないで、ワグネルを難ぜんとする新建築の人々もある。然し行きづまつた建築界に、一大転回の気運を促成して、新航路に高く光明をかゝげたワグネルの功績は、何人と雖も否むことは出来ない。

現在のワグネル

今やワグネルは七十余歳の老翁として、墺太利建築界の中心となつて居る。其現在の官位は墺太利の宮廷建築技師で、政府の建築技監で、皇立美術学院の教授である 而して英国王立建築学会、巴里中央建築会、彼 得堡[=ペテルブルク]露西亜帝国建築会、ブルツセルの中央建築協会、アムステルダム建築奨励会等の、各国建築界の中心たる諸学会の名誉会員に推戴されて居る。而して先般 維納で萬国建築大会が開催された時には、其総裁として推戴されて居る。此の如く建築専門方面で、至上の栄誉を担って居るのみならず一般世上からも墺太利の誇として尊崇されて居る。而して一九一二年七月に彼の七十歳の誕生の祝賀があつて、墺太利闔国[=全国の意]の愛敬に捧げられた。 (大正四年一月)

図版
宮廷用停車場 外観、入口付近
市街鉄道陸橋
カールスプラッツ停車場
ヌンドルフ本堰
維納の某建築 軒付近
ワード13号邸 外観
帝国軍事博物館 パース
瘋癩院 外観、入口付近
ハーグ平和宮 正面詳細、塔部詳細
郵便局貯金部 軒付近(人型彫刻)、入口付近椅子

岡田信一郎

建築家・岡田信一郎(1883(明治16)年11月20日-1932(昭和7)年4月4日)


岡田信一郎は、大正から昭和初期にかけて、 歌舞伎座東京府美術館、明治生命館など、 建設当時から話題になった作品を多く手がけた建築家である。
明治16年東京生れ。のちの首相、鳩山一郎とは同じ中学に通った竹馬の友で、一高、東大も同じだった。 政治・建築と活躍の場は異なったが、交友は生涯続いた。
東大建築学科を卒業後、東京美術学校東京芸術大学)と早稲田大学で教壇に立ち、多くの後進を育てている。 明治45年に行われた大阪市公会堂の設計競技では30歳の若さで最優秀賞を勝ち取り、一躍名声を得る。 また、美人芸妓の万竜(萬龍)との結婚でも話題になった。
病弱なため海外留学の夢を果せなかったが、人一倍の読書で海外の建築事情に通じていた。
明治生命館の建設では病床から建設を指示していたが、完成を待たずに昭和7年逝去。 実弟の岡田捷五郎が後を引き継いで昭和9年に完成させている。

近代建築ホームページよりコピペ、一部修正)

分離派建築会の展覧会を観て

(建築雑誌406号、1920.9)
分離派建築会の展覧会を観て
  正員 岡田信一郎

私は初め「分離派建築会の展覧会と其宣言を観て」と云ふやうな見出しで執筆するつもりで居た、併し其宣言や主張に対する批評を企てる事になると、建築の本来の意義とか現代の解釈とか云ふやうな事まで論じなければならない、而して建築の意義とか現代とか云ふ言葉は明瞭に分つて居るやうで実は甚だ曖昧に使用されて居るので此処まで突込んで評論する事は、ふだん不用意の私には急場には間に合はない。
其れ故に茲(ここ)では表題のやうに単に展覧会観覧の所感を述べる事とする、一体其の主張を検竅する事なしに其作品だけを論評する事は其本幹に触れずに枝葉だけを論ずるやうでもある。特に分離派会員諸君にとつては其作品だけを批評さるゝ事は定めし不満足であらうとも思ふ。併し一面から考へると技術者(芸術家と言っても宜しい)の立場からは、其の作品を通じて現はれる主張を以て其の真の主張と考へねばならない、
言葉の上の宣言やら主張ではいくら自由な理想が述べ得られても、之れが作品に現はれて確実に裏書せられない中は信用されて通用はしない。
特に抽象的な、壮麗に修飾された字句は其自身だけでは大きな価値を生じない
作品と云ふ確実な実印が捺されなければならない。此んな考へから差しづめ分離派展覧会の所感を述べる事とした、分離派建築会諸氏の宣言と論文も敬意を以て拝見した 之れに対しても愚存を開陳したいとも思って居る、特に独り分離派と云はず建築青年会其他 或は団体的集合はなさずとも一部青年建築家が現状打破の気運を気醸して居る事は注意すべき事象であるので、之に対する所感を申述べる機会を得たいと思って居る。
分離派建築会諸君の今度の運動に対して誰しも墺太利のセヽツション派の運動を思ひ起すであらう。墺太利のセヽツションに刺撃[=刺激]された事は其の名前からも分明である、しかし、会員諸君の主張が必しもセヽツションの当時の主張と同一であるか否かは遽(にわか)に断定出来ない。今分離派諸君が分離を主張せらるゝ対称[=対象]としての建築圏は、セヽツション派が分離を主張した如き建築圏であるか、若しくは其後の動揺を受けた建築圏であるかを明かにせねばならない、諸君の主張によれば後者の如くに思はれるが仮りに前者とすればセヽツション派が分離を宣言した当時の建築界の状況と、今日分離派建築家[=会?]が分離を発表した建築圏とは其の状况が非常に変つて居る、既に三十年の星霜を経た事でもあるし又皮層[=皮相]的の事にもせよ、当時セヽツションの人々の年品は異常の驚愕を喚起し異端を以て目された、今日ではセヽツション若しくは其の傾向の作品は決して珍らしいものでもなく、又其の主張も破壞的のものとも考へられず正当に享け入れされつゝある。たゞ建築家の手腕凡、意図怯にして独創的の実現を見ないで煩悶して居る現状である、建築界の基礎をなす大多数の青年建築家は誰れも当時のセヽツションの人々のやうに過去の捉はれから難脱しやうと云ふ主張に共鳴しないものはあるまい。
分離派の人々は恐らく今の此の心を不徹底な微温的であるとしてもつと徹底的な改造を企てたわけであらう。キユビスト[立体派]に続いたフユチリスト[未来派]の激烈に共鳴するのであらう、其の宣伝や運動振にも多少は其の面影が思はれるやうである。クラシツクとルネサンスの故地伊太利に生れた反動的の未来派の行動と宣言とは極めて真摯熱烈なものであつた、しかし其の欠陥とする所は作品を通しての主張が之に伴はない点である、今我(わが)分離派諸君に対して私は失礼ながら之と同じやうな感を懐くのである。諸氏の宣言と主張は未来派程ではないが可成盛んなものである、併し其の作品は普通一口にセヽツションと称されるものと大した距離がない、頃日伊太利未来派のアントニオ・サンテリア、マリア・チアットオネの発表された、建築意匠程の新味も徹底味も見受けられない、諸氏の宣言によれば現時の建築圏を分離の対称とせらるゝやうに思はれるが、作品によつて見れば嘗て墺太利セヽツション団が対称としたのと同様な建築圏であるやうにも思はれる。言を簡にすれば諸氏の宣言は勇にして作品は怯であると云ふのである。
作品を通覧した感想を挙げると第一通じて建築の芸術味を強調せんとする努力が窺はれる、石本君の言ふ「建築は一つの芸術である、このことを認めて下さい」と云ふ希望がどの作品にも観取される。併も従来の所謂芸術的建築の行き方のやうに虚飾の濫費をする事なしに此の目的を遂げやうと努力して居るやに見受けられる。私の言ふのは芸術味が現はれて居ると云ふのではない。現はさうと云ふ努力が認められると云ふのであるが、此の努力は蓋し分離派建築会の発生や、熱心な行動を喚起した原動力であらう。
次に構造の軽視の傾向が著しく目についた、理論上分離派の諸君は構造が建築美の一大要素である事を忘れたものではあるまい、構造の満足以上に何者かを掴まんとするのであらう。けれども作品によれば構造軽視の傾向が大なる事を遺憾とする。「建築に於て構造は決して萬能ではない、」「今日は構造が重視されすぎて居る」此う云ふ考が或は諸君の中に潜んで居るのでは無からうか、思ふに今日建築の構造は決して重視されすぎては居ない、たゞ其の芸術的考察が充分でないと、技術者が芸術的手腕を欠くためにかゝる錯感を起し易いのである。'嘗て数年前建築学会の大会で辰野博士が建築の構造的発展の急務を喚ばれたに対し私は芸術的方面の閑却されて居るのを遣憾とした、之に対して後に伊東博士は理智による科学的な構造方面は順調に発展し得るが、感情に基礎を置く芸術的の方面は斯く容易でないと説かれたのを思ひ起す。当時でも今日でも私は建築構造が軽視されてよいとは考へては居ない、否寧ろ今日の建築構造は比較的幼稚で其の研究も多く静力学の版囲[=範囲?]を脱し得ず、余り多くの仮定を基礎とするのを遺憾に思ふ。而して建築が構造的であればある程 其の芸術味を発揮するのに都合のよい基礎を持つと信ずる、勿論構造だけが建築美の基礎をなすと云ふ構造萬能には考へて居ない。此の構造と芸術味との関係に就ては後藤慶二君の作品などが明確な説明を与へて呉れる。分離派諸君の作品のあるものは構造的解決を生命とする題目のものである。夫に関らず構造の研究が充分でなく、且構造を芸術味の基礎とする努力をしなかつた事を残念に思ふ。
近頃私は建築の間取りの問題が比較的閑却されるのを遺憾に思つて居た。而して此の展覧会を見て此の念を一層深くした。分離派諸君は過去からの分離を強調される。此の分離の最も必要なのは間取の問題ではあるまいか、生活の改造(生活改善と云ふ熟字の意味する少さい問題ではない)と云ふ事が近代の標言であるが、其の改造せらるゝ生活の容れものとして建築が改造せらねばならないのは、分離派諸君の分離を唱へらるらゝ一原因であらう。此の解决は主としてプラニングの攻究である、作品の多くに或は姿図の奇抜はある、併しプラニングの新味を発見し得ないのを極めて遺憾とする。私は一般に外面の新奇な建築だけをモダーン建築と称するのを甚だ遺憾に思ふ、ワグネルのバイロイトの歌劇場は外観は平凡な建築である、然し内部は観覧席を扇形にして、見たり聞いたりする事の便宜をはかり、劇場に合理的な改造を加へた。だれも言はないが私は之を新建築と考へる、又[アルバート・]カーンの作つたヒル氏記念の講堂は、平面も切断もパラボラに法つて構架した、外観何の珍奇もないが、之は新建築の重要な事例と考へる、此の方面では私は分離派諸君の作品に深い失望を感ずる、曩(さき)に議院建築案の競技の発表があるや非難の声が喧ましかつた、中にも建築青年会は堂々其の所信を天下に開陳し或は竸技のやり直しとか対案作製とか熱心に努力した。私は現代に立脚して過去の様式建築を排斥する此等の人々の声を一面合理であると同情しながらも其等の諸君の言動が大に徹底しないと考へたのは主として平面間取りの問題からであった。当局から与へられたあの議院建築の間取り図は過去の頭で過去の考から様式的立面を頭の何処かに置きながら作つた間取である、此の平面図を無批評に受け入れ之に基いて作製した図案がよく其の形態が独逸風であらうと米国風であらうと私には之を新建築と考へる事は出来なかつた、議院建築に対する批評は先づ其の官僚的な、非開放的な弾力性を欠いた平面間取りに対して下さる可きものであると考へた。私は茲に分離派の展覧会を見て平面間取りに対する新しい研究の欠乏をあきたらず思ふて同時に議院建築に対する青年会の批難が同じく根本問題を逸したのを想記して遺憾の念を深くする。
(なお)一つ私の予想を裏切つたのは意匠に於ける立体的、彫刻的要素の少ない事である。分離派諸君は多く大学の建築学科で乙部に所属し、装飾画や絵画、彫刻に熱達[熟達?]して居ると云ふ評判であつた 特に彫刻は新海竹太郎君の指導を受けて進歩見る可きものがあると言ふ事であつたので其影響が建築図案に現はれる事と予想して居つた、然るに図案の多くは旧来の墺国セヽツション派の作物に多い、平面によりてのみ取囲まれた固著[=苦?]しいものが多く彫刻のやうに多種多様の豊富の面を取扱つて立体的の面白味を移入したものは少なかつた。私は今迄の建築で使用する面が甚だ貧弱で正面と側面と屋面との三つで夫れも多く平面から成立ち、従て立体形の特徴を発揮する事が少く、平板硬粗であるのを不満足に考へ、技巧上彫刻の取扱ふやうな変化の多い多種多樣な面が移入されたら形態に面白い開発も出来やうと思つて居る、独逸建築の成る物には此の傾向を観取する事が出来る。此の為に彫刻の教養が建築家の技巧の上によい影響を及ほすと考へて居たので私かに分離派諸君の作品に此点の期待を持て居た。諸君の余技的作品には彫刻もあつたにかゝはらず、此影響の現れないのを不足に思ふ、展覧会場で私は此の感想を話したに対して石本君は還元的の意向から最も簡単なものから出発する為に此の態度を取つたと弁明された。私は其後分離派の冊子に載せられた石本君の還元論を読み-建築の還元形に就いて考へる-と云ふ項に記載された立体の還元論を読んだ 之に対しても愚存があるが此処には省略する。
分離派会員諸君の個々作品について簡単に所感を述べさして貰はう、石本君の涙凝れり(ある一族の納骨堂)は整つた作品である。一般に最も好評であつたやうだ、細かい部分の技巧も行き届いたものであるが、夫れだけやり過ぎて敦厚(とんこう)の趣をして居る、納骨堂としてはもつと土の感があつても冝しからう 高いホールを設けながら室内配景図に其の高大な感を出さなかったのは遺憾である。材料使用の点、平面、構造に対しても再考を煩はしたい点がある。配景図は気持よく出来て居る。
堀口君のある会室、美術館への草案共に立体的の感に富んだ作である、冊子に平面図が載って居ないのを遺憾とするが、外形では内容を表現しては居ない。ある仼宅への一草案は、月並の平面である 分離派と主張する以上はもう少し現代生活を改善する位の意気込みでありたい。「精神的な文明を来らしめんとして集る人々の中心建築への試案」、間取りに遺憾を感ずる、瞑想の広間の説明を聞かなかつたが周囲から見る効果が覚束ない、此処の構造と他の部の構造が、一致しないやうに思はれる、立面でも集会場を強調する必要があらう
瀧澤真弓君の山岳倶楽部、立面で山岳重畳の感じが出て居るのを面白く思ふ、併し各部が技巧上の統一がなく数多の家の集合であるかにも見える 細部の施工上はもっと大胆な企画をしても宜しからう、平面、平凡、公会堂は側面も平面図もないので、評言は控えるが入口と其上の大張出窓には面の試が現はれて居る。村役場は面が貧弱で、もう少し大自然の気持が欲しい。
矢田茂君の或る美術村の会館、ホフマンの門下マルゴールド等の気持がある。職工長屋、平面に改善の余地を認める、又家具を配置し如何に生活するかを具体的に考へてやらなければなるまい、クレマトリウム面白さうだがまだ分らない 双塔より単塔の方がよくは無からうか。
山田守君の習作(大ホール)は構造的に企画して面白く効果を得らる可きもので構造に振[=触?]れる事を避けた無意味の作品である、国技館や独逸の某博覧会の式場に示唆を受けたものと思はるゝが早大本年の卒業計画にも同種のものを見受けたが之は構造的にも努力した作品であった、同氏公会堂は平面図も切断図もないので巨大な砲弾形の高塔の価値が分らない。山奥に公会堂を置くわけも。
森田慶一君の屠場は配景図のさつぱりした形態には快いものがある。
今回展覧会に於ける諸氏の作品の多くは大学にける練習作と卒業製作とで自然自己の自由な発表を遠慮された点があるかも知れない、第二回展覧会に於てはもつと自由なしかし合理的な作品を拝見したいと思ふ分離派諸君の真摯と熱心がいつまでも其の真醇を失はずに永続せん事を企望[=希望]して筆を擱く、妄評多罪。

はじめに

建築家・岡田信一郎(1883年-1932年)関係のデータを集めます。

*作品

*著作

*文献

別ブログは気ままに書きすぎてゴタゴタしてますので、このブログは(なるべく)ちゃんと書きたいと思います。