岡田信一郎アーカイブ

建築家岡田信一郎について

オツトー・ワグネル(Otto Wagner)

(現代之建築1・2・3号、1914.11-1915.1)
オツトー・ワグネル(Otto Wagner)(上)
  工学士 岡田信一郎

此稿は嘗て雑誌「学生」の立志号[1914.9]の為に執筆したのを爰に其誤りを訂し又多少専門的事項を書加へて掲載する

レネサンス建築の末流

第十五世紀から四世紀間に亘つて欧州の建築界を風靡してさしも殷盛を極めたレネサンス建築も、其末勢は委微として奮はず漸く人心を倦ましむるに至つた、特に十九世紀の半頃各国に国家的観念が振興して建築も其影響を受けて所謂国家的([ルビ]ナショナル)建築として其国々の特色なる中古期の建築が復興された。而してレネテンス建築に対して陣鼓をならした。此の争の最も激しくして建築家及其鑑賞家が筆に舌に戦を挑んだのは英国で『様式の戦争』などゝ称されて居る。此等の復興されたゴシツクやローマネスクの中古の様式は近世建築の要求に適合する事が困難であるが故に間もなく宗教的建築以外のものには其勢を失した。其後の建築界即十九世紀末の建築界は一層混乱の渦中に陥った。建築史家或はエクレクチシズムの時代と称するが、一世の帰嚮(きこう)すべき様式のあるなく建築家は一定の針路なきが故に混沌の中を左右に彷徨して古来東西の様々な様式の範を求めて其手法を取り合せて、寄せ集めを事として居る。而して惰性の久しきレネサンス建築の形類によるものが多いが老大にして生気なき此式の末流は新時代の要求に合致すべくもない、新しき思想、新しき生活、新材料、新構造、新需用、何れも新建築を要求して止まない。於此 白耳義に、仏蘭西に、墺太利に独逸に、米国に新建築は起つた、而して其墺太利に起れるものセヽツシヨン建築であつて、オツトー・ワグネルは実に此派の泰斗である。

セヽツシヨン

新時代の新しい意義を以て芸術を取扱うとした墺太利の画家彫刻家建築家が旧派に反抗して結束して立ち其首都 維納府にセヽツシヨンなる旗印を掲げて新運動の勢揃をしたのは一八九七年の四月三日であつた。一体セヽツシヨン(Secession 独Sezession ゼヱツシヨン)なる語は分離と云ふ意味で此処では過去の旧伝習に捉れた旧臭いアカデミツクな流派に対する反抗の意を示して居て新思想を表現しやうと企てた画家彫刻家建築家の一団が其名称に選んだ名である。此団体の中には画家としては其首長に選ばれたルドルフ・フオン・アルト、やセヽツシヨンの先覚者と称されるテオドル・フオン・ヘルマル、や又新派中最も有名なグスターフ・クリムト等も居た。彫刻家としてはアルフォンソ・カンチアニやオトマル・シムコウイツツ等が居た。然し其新運動の中心となつて世間に目覚しい刺激を与へ人目を聳動したのは其建築と及び之に伴ふ美術工芸とであつた。建築は他の芸術に比すると流動性の少ないもので、世の思潮の変化と共に急激に変ずる事は困難であるが、此際、各芸術の首冠となつて、新芸術の先駆を為したるは頗る異とするに足る。而して又建築は其性質上一般世人を刺激することも大きく、且つ工芸美術と共に流行を喚起し易いため、此二者が専ら人の視聴を惹いて、セヽツシヨン式の名を専らにするやうになつた。日本でも近来セヽツシヨンと云ふ語が切りに建築や美術工芸に用ゐられて居るのは、かゝる由来からである。然るに実際に於ては建築及び美術工芸と絵画、彫刻とは其性質の上で一寸其運動を共にし難いので、其後建築家は多くセヽツシヨン団から退会して今は主として新派の画家、彫刻家のみから成つて居る。而してセヽツシヨン団は其後独逸のミユンヘン及びベルリンにも設立されて居る。今日では斯くセヽツシヨン団は画家、彫刻家のみの団となり、建築とは縁うすくなつたに関らず、セヽツシヨンなる俗名が反つて建築及び美術工芸の新派に冠せられるのは面白い事である。併し欧州ではセヽツシヨンなる語は新建築、新美術に関して日本で用ふるやうに盛に用ひられては居ない 或人は近頃の伯林のセヽツシヨンが、主として新派画家のみから成るのを見て、日本でセヽツシヨンなる俗称が建築及美術工芸に用ひらるゝのを、如何にも無法であるかのやうに云ふが、之は墺太利に於けるセヽツシヨン勃興の由来を知らないからで、其当時は此新建築にセヽツシヨン、新派建築家にセヽツシヨニスト等の語が用ひられた事は、墺国の建築雑誌『デル・アーキテクト』等を見れば分明する。又米国の雑誌等でも屡々セヽツシヨニストの語が用ひられて居る。此等が日本に伝はつたのであらう。勿論日本でのやうに流行的な俗称に用ひられたのではない。

近世建築

如斯(かくのごとき)セヽツシヨン派の勃興に際し、新建築の一団を率ゐて建築を新運動の主力たらしめ、因襲久しきに亘つた建築界に一大回展の機運を拓いたのは、一にオツトー・ワグネルの力である。ワグネルは画家、彫刻家の間に未だセヽツシヨンのやうな新運動に関する考が熟さない中に一八九五年の十月に『近世建築(Moderne Architektur)』なる一書を著して其新主張を発表した。此書は実に彼の新運動に対する第一の振鈴であつたのである。之より曩(さき)一年ワグネルは維納の皇室美術学院(K.K.Academie DerBildend en Künste)の教授に任ぜられたので、教鞭を執る傍ら其学生及び世間に建築の本来の性質と目的とに就て其意見を発表せんが為めに、此書を書き上げたのである。此書は其後数版を重ねて弘く世に行はれたが、最初に現はれた時にはワグネルの儕輩(さいはい)[儕=ともがらの意] は全然之に反対し、或は痴人の寝言と目して嘲笑を以て迎へたものも少くなかつた。併し進歩的の青年建築家のあるものは、彼の呼号に目覚めて大胆なる此新論著を歓迎し、其足踵に追従したのである。勿論此以前ワグネルは、其作物に多少新手法を試みたが、併し確然と新時代に適合すべき真の建築は此の如きものであると呼号してセヽツシヨンの機運を促進したのは此小著に於てである。而して此等の影響から既にセヽツシヨン団の旗挙の際には、彼の所見に賛して彼を援けて其新運動に加つた人々には、ホフマン・オルブリツヒの譜代を始め、尠(すく)なからざる俊髦(しゅんぼう)があつた。

若きワグネル

ワグネルは一八四一年七月十三日に、墺太利の首都維納の近郊ペンツリングに生れた。長じてクレムスミンステルの中学を経て維納の工業学校に学び、後伯林に留学して建築を専攻して再び維納に帰来してからは維約のアカデミーに入つた。其後建築家アウグスト・シカルドブルヒ(Algust Sicardburg)、ヴァン・デル・ニユール(Van der Nüll)の事務所に入つて其教導を受けた。此の両人は維納の宮庭歌劇場其他の建築家として知られて居る。伊仏系統の建築家である。此事務所ではシカルドブルヒが主として構造に関する方面を受持ちニユールが意匠を司つた。ワグネルが主として師事したのはシカルドブルヒで彼が若きワグネルに与へた感化は決して尠少ではなかつた。彼は維納の旧式の建築家の中では比較的建築の構造的原理の重要なことを理解した人であつて、且頗る建築常識に富んで居つた。此等からワグネルの構造的の方針、常軌を逸しない性質が由来して居る。又ワグネルの作物の有するクラシツク的の趣味も其師に負ふ所が多いやうである。ワグネルは一八六二年維納市公園の『クール・サロン』(一種の娯楽場)の懸賞競技の懸賞競技に主賞を得たが之は設計だけで彼の手で実施されたのでは無かつた。其以後彼は独立して建築の設計に従事し住宅建築事務所建築等を設計した。
斯く若きワグネルが其学習の時代を経て、漸く自立して建築家として其地歩を占めやうとした時代、即ち十九世紀の後半には、墺国の首都維納は盛大な建築期であつた。此時分に維納の市区の大改正がなつて、之に関与して当時独墺の有名な建築大家が其腕を振つた。即ちフエルステル・ハンゼン、シユミツト、ハーゼナウエル其他の諸士で、其作物の主なるものは、リング街や諸公園を飾る大建築で、今も維納の観物の一である。上掲の建築家は各々十九世紀末の大建築家として何れも有名で又其名声に適ふ大なる手腕と十分な智識とを有した人々である。併し彼は何れも或る過去の歴史的様式を追従して其により其建築を意匠した。而して其作物の中には或は歴史的様式で建てられては居るが、其建築の性質を表現し又作家の個性も現はれた十九世紀建築の有数な物もある。併し此等諸大家の追従者の為す所、其子弟の造る所は、多くは全然此等の過去の様式に捉はれた生命のない形式的の建築ばかりで、昔の建築から学んだ細部の手法を取り合せて設計すると云ふに過ぎなかつた。要するに精神のない模倣の作品ばかりである。此の如くにして、十九世紀末に於ては、維納の建築界は停滞しきつて、建築の理解、建築の趣味は墜落して、研究と云ふのも、要するに衒学的、皮相的のものとなり終つた。此の状態は独り墺太利のみならず、多少の別はあるが、十九世紀末には各国の建築が皆なこんな有様であつて、建築は行留りの態であつたが、此際ワグネルは起つたのである。而して建築に新生命を附与して、将来の建築の行くべき道を指示せんとしたのである。尤もセヽツシヨン式の他にも建築界の停滞した現状に抗して、仏国にアルーヌーボー式などが勃興したが形式と材料の適用等の間に十分の調和が無つた為めか、又は奇を好むこと甚しかつた為にか、工芸美術を他にして、建築に於ては遂に大なる勢力を為すに至らなかつた。 (大正三年十一月)

 

オツトー・ワグネル(Otto Wagner)(中)

ワグネルの理想

今迄の建築家の一般は、過去の様式からの色々の形式や手法を取捨塩梅して取り纏めることを一に其任務と考へて居たが、ワグネルの建築に対する態度は一層根本的のものであつた。彼は建築は人間の必要に応じ、又人間の要望に応ずる活力である、且つ同時に社会生活の永遠の記録であると考へた。而して建築は人智の最高の表現で、絶えず無上の際に到達せんことをつとめてゐる。又一面に於ては建築は近代生活のあらゆる要求に服従して、其用途を充さねばならぬ。建築家が社会の各般の必要を認めることは、其大なる任務で、其の必要、其目的が明かに認識さるれば、従つて之に適当なる材料と云ふ問題も解決される。此目的及び材料の二項から所謂形式若くは様式と称するものが定まつて来る。其故に汎く一般に適用されて、且つ妥当な様式と云ふやうな定まつたものがある訳はない。様式は此の絶えず変ずる二項から生ずる結果で、其決定は色々の事情、仮令ば土地の状況や、気候等其他色々のものに関して来る。而して生活の愉快を高むるに具合のよい色々の新しい方法や種々、なる設備や、新しい考案などは凡て悉く取り入れられねばならぬ等と云つてゐる。要するに建築は主として人間の考案力の発現で今日の複雑な社会生活の実需用に完全に適合し、各種の材料を用途に適して正常に使用し、材料の表現と形態の調和とを索め、合理的な新意匠を得やうとするのである 
ワグネルは必要と云ふ事を非常に重視した 而して”Artis Sola bomina Necessitas”(芸術は必要の他配偶を知らぬ)の語は彼が維納市の改正の競技図に書き込んだ金言で同時に之に副へた説明書の表題であって、之寔(まこと)に彼の建築観の根蒂(こんてい)である。過去の様式に対しては彼は厳乎たるセヽツシヨニストであつた。吾人の生活の状態、吾人の活力、吾人の科学的の進歩等は旧とは全く変つて居る 夫して刻々変りつゝある。芸術は其自身の時代の状況に表現を与ふ可きであると云つて居る。又人は昔の著物を着ないのに何故に単り建築のみ過去の因習に囚はれて居るのかなどとも云つて居る。然し彼は過去の建築を無視しはしなかつたのみならず、其の美を重重[=尊重?]することに於ても決して人後に落ちない。彼曰く真の建築家のみが古くして美しきものと単に古いばかりのものゝ区別をする事が出来る。かゝる人こそ美はしいものゝ無法な破壊にも又古い物の模倣にも賛成しないと。
ワグネルは又深く近代生活の根蔕を理解して其共和的社会的組織の建築にも表はるべきだと考へて居る。都市配区([ルビ]タウンプランニング)の問題に関して彼は我共和的の社会は生活法に於て経済問題の圧迫を感ずる。而して衛生と廉価が住宅にとつて必要で従つて住宅は皆一様のものになる可きである。此傾向が将来の都市の表現の本となる。同じ大さ同じプランの家が一つの大なる建築に集合すれば経済的であるなどゝ云つて同様な町家が建連[=並?]ぶべき事を予想して居る。此点に関しては彼も亦一箇の社会革命家である。

ワグネルの作物

一八九四年、彼は帝室美術学院の教授となつて、其新意見の下に数多の学生を養成した。而して彼は又建築技監に任命されて、先づ数多の停車場、陸橋等 維納主都鉄道に連関する建築を造つた。勿論之より曩(さき)にも銀行、浴場、其他住宅建築等ワグネルの作品は少くは無かつた。
又ブタべストの議事堂懸賞競技などにも応募したことがあつた。併し其斬新卓抜の意匠を以て、著しく人の注意を惹いたのは此等の建築からである。此等の建築は旅客の急速な、安全な愉快な旅行と貨物の便利な運輸との実用を主として意匠し之に適応した構造を考案して適当な材料を使用して運輸なる事業と調和し、使用した材料構造とも適合した新式新装飾を創出した。其鉄橋、手摺、入口の屋根、其他に使用した鉄材の装飾的手法は旧形式を全く離れて、比較的簡単で印象の深いものである。此等の鉄道に関したものは色々あるが其内特に有名なものはヒエチングの宮廷用停車場、カルヽスプラツツ停車場、ケテンブリツケン街停車場、鉄道収税本局、グムペンドルフ橋等、何れも大規模のものではないが、清新な宝玉のやうな作物である。又ヌドルフの水堰は土木工事が主であるが、其装飾は壮大な印象を与へる。其他貸事務所等の市街建築も数多あるが、フリードリツヒ街のものは維納近世市街建築の好標本である。ワグネルの数多の作物中、其理想を発揮して、新材料の適用と斬新な手法とを表示した。其代表的作物と称すべきものは、維納郊外のスタインホーフーの下部[→地域名]墺太利癩病院会堂と、維納の郵便局貯金局とである。又遂に実行はされなかつたが、維納の市立博物館の設計は斬新な極めて興味ある作物である。彼は又海牙の平和宮の懸賞競技にも指名され、審査の結果其設計は第四位に置かれたが、平面間取の簡単適截にして、而も統一ある美観を呈したのは、応募図案中の一異彩であつて、結果に於て第一位を占めなかつた云ふ事も、決して彼の盛名を傷けはしない。
ワグネルは其政府の技監である故従つて作物は多く公共的のものでセヽツシヨン団の他の建築家のやうに住宅はあまり多くない。又従つて美術工芸品も他の人々程数多くもないが併し其清楚な特徴は茲にも認めらるゝ。彼は又都市配区の意匠にも令名を有つて居る。而して一九一〇年米国の紐育市は彼を聘して其説を聞かうとしたが彼は同じ都市配区の問題で伯林の同展覧会へ出席したため渡米の機を失し米国では大に遺憾に感じたと言ふ事である、最後に誌す可き彼の作品は彼の皇立美術院で教養した数多の俊優な教弟である 之が為墺国建築界を裨益した事も尠少ではない。

 

オツトー・ワグネル(Otto Wagner)(下)

彼の建築の特質

彼の意匠になる此等の建築物は、何れも前掲の其新建築に対する所説を体現してゐる。即ち近代の実生活に遺憾なく適合して其用途を充して、且つ近代精神を表現せんとして居る。而して旧建築の模倣をさけ細かい部分までも過去建築の伝習を全然排除し、建築家の考案力を十分に発揮して、其構造の目的に適ふ材料を有の儘に使用して、材料の性質と構造法から自由に新しい形状、装飾を案出しやうとした。而て其手法は大胆で、簡素明瞭な、むき出しなものである。其故に其結果は極めて斬新で旧派の人からは建築では無いと云ふやうにも見られた ワグネルの趣味は其師シカルドブルヒの教養に負ふ所多く、建築の権衝や、釣合等に於ては概して穏健である。ワグネルを中心として起つたワグネルの門下は、中には随分大胆奇抜なものが少くない。而して其優秀なる或る物は新建築の為に気を吐く事、反つてワグネルの作品より著しいものもある。併し大体として見る時は、此等新建築の作品は、余りに新奇を索むる結果随分突飛なものを作る事も多く、根本趣味の銑練を欠くので、出来上りが粗硬なものもある。此点ではワグネルの作は急激なる新派の人々から見たら、多少歯掻い所があるかも知れぬが、清新な穏健なものとして、却つて世の歓迎を受けて居る。

郵便局貯金部と瘋癩院会堂

今彼の作物の中で最も代表的な建築を此に挙げて簡単な説明を試みやう。郵便本局貯金部は首都維納の中心に近くにあつて一九〇六年に落成した 三十七人の応募した競技の中で彼の作が当選したのである。挿図[外観の写真あり]によつて其大体を知る事が出来やうが、此建築の特徴は布置の簡素と手法の大まかな事により博大の趣を呈して且、極めて釣合のよい正面を有して居る 構造は鉄筋コンクリートで其の構造を無遠慮に暗示する外面装飾を用ゐて居る。即外部では下部は花崗岩板を上部は主としてラオス産の大理石板を鉄棒頭で壁体に張付け白銅鋲大[?]で取付けて居る 而して此の変化ある鋲頭の配置などが一種の装飾になつて居る。軒の突出したコルニスは鉄製で鉄の特徴を露出した簡単な意匠で大胆に設計されて居る。コルニスの上に色々の装飾的意匠が施されて居て、彼の好んで用ふる花輪飾などが用ひられて居る。此建物の正面には張出したポーチがある  柱は細き鉄柱を用ひ総ての意匠が邪魔にならぬやうに軽快に出来て居る。之は瘋癩院会堂にも用ひられて彼の常套手法であるが後の簡素な大理石の建築に対して仮設的の取付ものゝやうな感を起さず情楚[=清楚?]な調和を得て居る。此建物の内部は配置も装飾も非常に簡単であつて単に大理石の腰羽目を設けた位である。必要は美の唯一の配偶と云ふ彼の所思が茲にも発現されて居る。
下部墺太利 瘋癩院附属会堂は維納の郊外スタインホーフにある、汽車で維納に入る前に左方に当る丘の上に建つて其の特異な形の金色のドームは少からず旅客の警異を惹く、プランは四方の突出の同様な希臘十字形で外部は大理石を張つて簡単で且印象的である。内部は従来の会堂の陰暗な気持は全くなく、反つて明快な印象を与へる壁は音響の反響を防ぐため縦に波状をなして之が装飾の一助となつて居る。内部の装飾は主として祭壇に集中され此部には陸離たる天蓋が釣られてある、装飾は主として大理石と鋳銅とよりなつて居る、コロ・モーゼル氏の意匠になるトランセプトのステーンド、グラスは又極めて近代的のものである。装飾の特形は前の建築と同一系統に属するものである。

セヽツシヨン団の名士

時代の新機運に乗じて新しい材料や構造の頗る合理的な武器を携へて新建築の旗を押立て、旧様式の暴圧に反したワグネルの麾下は決して薄弱ではなかつた。数十の勇士鎧袖を連ねる有様であつた。ヨセフ・ホフマン、オルブリツヒ、コロ・モーゼル等の諸氏はセヽツシヨン団成立の時からワグネルを輔けて、其天才は寧ろワグネルにも勝ると言はれてゐる。オルブリツヒは後独逸のダルムスタツトに遷つて、若くして死んだが、ホフマンは今日維納の美術工芸学校の教職にあり、猶ほコロ・モーゼルと共に維納美術製作所を起し、新建築及び新美術工芸の中枢である。コロ・モーゼル又之を輔けて建築装飾及び美術工芸に天賦の才能を発揮して居る。其他ワグネルの直接指導を受けた門下又はワグネルの風を聞いて起つたものは数ふるに遑がない。斯くして維納は新芸術の中心である。爰(ここ)にワグネルに感ずべきは、其門下に自由に其天分を発揮せしめて決して之を自分の法式に束縛せぬ事である。斯くワグネルの呼号に目覚めたのは、独り維納のみではない。勿論時代の機運の然らしめる所とは言へ、墺独の各地群秀輩出して各々斬新な意匠奇抜な手法を以て旧建築の打破に力めて居る。新建築の此勢は何時迄続くか、遂に知る事は出来ぬが、併し最近の建築構造及び材料の革新に伴ひ、世態思潮の変じた新時代の実用を基とし、建築様式の革命を呼号する所に深い根蔕があると思はれる。私は強ち、今日日本にも ちよい/\行はれるやうな、薄つ片な、模倣的紙函の様なセヽツシヨンの建築までに賛意を表するのではないが、其根本を見て此式の前途を祝福する一人である。或はワグネルが其趣味に於てクラシツクの傾向を奉ずるを見て、又其作品の穏健なるに慊(あきた)らないで、ワグネルを難ぜんとする新建築の人々もある。然し行きづまつた建築界に、一大転回の気運を促成して、新航路に高く光明をかゝげたワグネルの功績は、何人と雖も否むことは出来ない。

現在のワグネル

今やワグネルは七十余歳の老翁として、墺太利建築界の中心となつて居る。其現在の官位は墺太利の宮廷建築技師で、政府の建築技監で、皇立美術学院の教授である 而して英国王立建築学会、巴里中央建築会、彼 得堡[=ペテルブルク]露西亜帝国建築会、ブルツセルの中央建築協会、アムステルダム建築奨励会等の、各国建築界の中心たる諸学会の名誉会員に推戴されて居る。而して先般 維納で萬国建築大会が開催された時には、其総裁として推戴されて居る。此の如く建築専門方面で、至上の栄誉を担って居るのみならず一般世上からも墺太利の誇として尊崇されて居る。而して一九一二年七月に彼の七十歳の誕生の祝賀があつて、墺太利闔国[=全国の意]の愛敬に捧げられた。 (大正四年一月)

図版
宮廷用停車場 外観、入口付近
市街鉄道陸橋
カールスプラッツ停車場
ヌンドルフ本堰
維納の某建築 軒付近
ワード13号邸 外観
帝国軍事博物館 パース
瘋癩院 外観、入口付近
ハーグ平和宮 正面詳細、塔部詳細
郵便局貯金部 軒付近(人型彫刻)、入口付近椅子